A Note

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詩を翻訳で読むのって意味ないな。言葉が正確じゃないか。つまり最高の形で味わうことはできない。当たり前だろと思われるかも知れないけど今まで頭が寝てたからあまり考えたことがなかったな。例えば、つまり小林秀雄の訳したランボーを読んでる人は、ランボーじゃなくて小林秀雄を読んでんだよね、それは。小林秀雄を経由したランボーはすでにランボーではなくて、ヒデオーであるということだね。ヒデオーはランボーにものすごく似ているし、依然として十分な詩的感動をもたらすものでもありうるけれども、しかしヒデオーとランボーはまったく別物であるという事実を忘れないほうがいいということ。

なぜそう考えるのかというと、それは詩だろうと散文だろうとそうだけど、書かれた言語において実行=読解されることで最高の性能を発揮するように、いかなる作品もそれが書かれたところの国語に最適化されてるからだ。つまりランボーの詩は彼がそれを書いた言語であるところのフランス語に最適化されてる。これは別にランボーが意図してそうしたわけじゃなくてただフランス語を用いて書いたら必然的にそうなっただけだ。

韻を踏むこと、言葉のリズムを取ること、部分と全体をバランスさせること、詩人が作品に施した精緻な彫琢はその国語で読んだ場合に最適な効果を生むようになっている。そしてランボー小林秀雄を通じてヒデオーへと変換される過程でかなり多くのものが脱落したり、あるいは歪められたりしている。もちろんこれは不可避だし、小林秀雄の責任でもない。それが翻訳ということなのだ。僕は小林秀雄を批判したいんじゃなくてむしろ逆だ。ヒデオーを流通させることの利益は小さくないし、感謝したいと思っている。そもそも、誰でもフランス語が読めるわけではない。偉そうなことを言っている僕自身読めない。

つまりヒデオーがヒデオーとして素晴らしいものであると認めるが、それは厳密な意味でランボーではなく、あくまでもランボーはフランス語でしか読むことができないということだ。フランス語は音が綺麗なのがいいと思う。官能的っつうかエロい感じがすんだよね。この言語だったらそりゃ詩も語りうるわ、みたいな納得感をあのモニャモニャとした音が与えてる気がするな。日本語の音が汚いかっていうとそうも思わないんだけど。

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Who are you?

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ラテン文学あるいはラテン語学科、以外でラテン語が最低限の基礎教養になってる学問分野ってあるのかね。とくにこういうlogicの話題なんかになるともう全部ラテン語なんだよね、ついてる名前が。今見ると、哲学でもデカルトスピノザくらいまで遡るとあの人達自分の本をラテン語で書いてたとある。"カント以降母語での著述が主流"

例えばこのad hominemっていうのは数あるlogical fallacy、つまり議論における論理的誤謬の、一つの具体的な例として出てるんだけど、ad hominem (Latin: "to the man")、to the man、意味としてはこれつまりpersonal attack=個人攻撃のことだね。ページの一番下に大きく分けて四つ、分類されてて、うわこれすげと思ったな、というのはこれちょっと賢いけど倫理的に問題のある人がしようと思えばモロに悪用できるからね。詭弁術。

つまり包丁だね。いいことに使おうってことだな。ニンジン切ったりね。正当防衛が成立するような場合を除いては、人を傷つけるために包丁を使ってはいけない。logicもしかり。自戒を込めて。

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  1. 科学者と芸術家とはそんなに違うものだろうか。そうではない。同じ真理の、一方は表を、一方は裏を目指しているのに過ぎない。
  2. 科学者もその研究において美的な快楽を味わうし、芸術家もその製作において精密な推理の能力を要する。
  3. そしてどちらも個性が強く、個人主義的で、見方によっては偏狭である。
  4. つまり結局のところ、科学者と芸術家は仲間である。


yeah absolutely, absolutely.

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知的な人柄に惹かれて周囲に集まった文人や哲学者・芸術家が多く、ジョルジュ・バタイユトリスタン・ツァラレイモン・クノー、ミシェル・レリス、ジョルジュ・ランブール、ダニエル=アンリ・カーンヴェレール、アンドレ・マッソン、モーリス・メルロー=ポンティクロード・レヴィ=ストローステオドール・アドルノらと親しく、そのうち何人かはレイボヴィッツから作品を献呈され、また文学者の場合はそのテクストに曲付けされている。

前にどこかで、ウェルベック素粒子に書いてあったのかな、ニールス・ボーアの家がそんな感じだったとも読んだけどね。まあこういうふうになってるのがすごくいいだろうね、っていうか単純に憧れるよね。だってバタイユツァラにクノーでしょ、ミシェル・レリスにメルロ・ポンティね、レヴィ・ストロースアドルノって、ええっ?! って感じがするよな。まあ普通に考えてこの面子がすごすぎるよね。

それぞれが知的にものすごくレベルが高くて洗練されてるんだけど、みんなそれぞれにどこか間違いなく狂ってるから、話が合ってるようでも全然合ってない、でも一回りして実は合ってる、みたいな高度に創発的な狂ったサロンだよね、これは。創発的な知とか言うんだったら絶対こういう場所があったほうがいいよね。なんか商売でもして金を作ってさ、こういう知的な狂人が集まって自由に遊ぶ場所みたいのを作りたいなあとも思うんだけど。だってこんなのメチャクチャ楽しそうだからね。

まあ自分がもし金を稼ぐとしたらそういう場所を作ることは絶対にしたいね。パトロンというか旦那的に。でそこで知的に洗練されすぎて少々イカれた連中を遊ばせておくという。自分でもこれは良い計画だと思うな。

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単純に経済学で言うところのストックとフローについて知りたくて "フロー" って入れたんだけど、思いがけず面白いのが来たから良かった。ある種の特別な意識状態=フローに導くためにはどうしたらいいのかなって考えて、ある程度普遍的に言えそうな8つの要素を抽出して並べてある。こういうのって自分でやると大変なんだよね。人に抽出してもらってるからただお手軽に読めばいいんだけどさ、自分自身で考えようとするとものすごい時間かかる。

ま流れってことでいうとさ、例えばお金とか人材とかの社会的な構成要素から、今この場所で起こっている空気の対流まで結局全部流れだなって考えると、結局この世界に何一つstaticなものなんてないじゃん。例えば家はstaticでしょと思うかも知れないけど、そんなの全然staticじゃないね、だって1000年先もまだ建ってる家なんておそらく一戸もないでしょ。地球はstaticでしょと思うかも知れないけど、何十億年かしたら地球なんか太陽に飲み込まれてなくなるだろうし。

万物は流転するんだろうね。なんでもそうだけど何かを分かろうとしたら流れを流れとしてそのまま理解する必要があんだね、きっと。でどんな概念とかモデルとかでもそうだと思うけど、その根本にある核をイメージで掴むのが大事みたいなんだな。そしてそういうのってたぶん頭の回転の速さとかじゃなくて詩的・芸術的な感性が重要な気がするんだけどね。

個々の要素は激しく流動するのにも関わらず系全体として安定みたいなシステムがあちこちにあって、あ、これってこれじゃね?みたいになって細胞の理論が社会の理論になったり情報通信システムの理論になったりするのが面白いね。っていうかそれは生命それ自体が奇跡的に完璧なシステムだってことなんだろうね、結局。まあそんなことを考えたんだけどね。