A Note

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ケージの4分33秒ってあるよね。

あれを聞いて感動してさ、さっき "∞" という曲を書いたんだ。つまり無限に長い無音の一音から構成される無音ね。もちろんインクは一滴も使わなかったんだけど、五線紙が無限に要ったのがとにかく大変だった。永遠はないとみんな言うんだけど、ついに永遠を実現することに成功したみたいだね。まあ、演奏し終わるということができないからちょっと大変なんだけどね。

またその曲を演奏し始めるということはつまり、中途のどこで切り上げるかを決定することと同義になるね。何せ曲が演奏者の寿命より長いからさ。死ぬまでピアノの前に座ってても終わらないわけだから適当なところで切り上げて欲しいよね。

ただ、ここまで書いて思ったんだけど、無限の長さに始点があるというのは数学的に言って正しいんだろうかね? つまりこの、さっき無限の五線紙に書いた "∞" なんだけどさ、この曲がまだ演奏を開始されていないとすると、演奏するためには、当然ながらこの曲を演奏し始めることが要請されるんだよね。つまり時間軸の上にこの "∞" が始点を持つことになるんだけど、それは数学的に言ってどうなんだろうか? もし仮に無限に長い時間が、その定義からいって始点を持つことが不可能だとするとさ、ちょっと自分としても残念なんだけど、この曲、論理的に言って演奏し始めることができないんだよね。

もしそうだとしたらさ、それはすごい不条理感だよね。うん、すごい不条理感を感じるね。これってそうすると、永遠に演奏することの不可能な永遠に長い曲を書いてしまったことになるんだろうか。それとも、論理的に言って演奏することが不可能である以上、この曲は存在しないということになるんだろうか? しかし、僕は確かにさっき "∞" を書いたのだが…

これは難しいわ。今日のところは寝てまた明日考えることにするぜ。なんとかしてこの曲を演奏したいね。

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ゲバラについて考えてみると、間違いなくカッコ良かったし強靭な精神と比類のない行動力を持っていた。人間としてもすごく魅力的だったと思う。しかも本当に革命を成し遂げた。そんな男はそうはいない。しかしこの世界の自然は狡かった。何が狡いのか。

つまり残念ながら、この不完全な世界では、まったくの善意で為された行為が必ずしも幸福な結末へ導くわけではないということ。もっというと、この世界で最も純粋な善意が、史上最も恐ろしい地獄を現出してしまう可能性さえあること。心の底から相手の幸福を思ってする行為なのに、その対象をこれ以上ないほどの不幸へ叩き込んでしまう場合さえあること。本当にアイロニカルだと思うが、世界がそうなっている以上は、それをただ理解すべきだろう。

ゲバラが心の底から貧困に苦しむ人たちの境遇に心を痛め、優しく、勇敢な男であったという事実を僕は疑ったことはない。しかし彼が文字通りその命を賭けて樹立したキューバという国家は果たして天国だろうか? 僕は全然そうは思わない。ゲバラ本人はほとんど人間離れした思いやりと勇気を合わせ持った男であったかもしれないし、僕自身一個の人間として彼のことは好きだ。しかしそれがそのまま、キューバが地上の楽園であることを帰結するわけではない。素晴らしいゲバラが作ったキューバは素晴らしい国だということには必ずしもならない。それどころかある種の人間にとってそこは地獄でさえあったのだ。きっかけはレイナルド・アレナスの自伝を読んだことだった。"夜になるまえに" 

彼はキューバの小説家でゲイだった。そしてどうも生まれてくる場所を間違えたようだった。というのは、彼はそのセクシュアリティのおかげで、キューバという国家によって壮絶な迫害を受け、収容所へ入れられた。彼がキューバにおいて遭遇した苦難の数々を具体的に、しかし気高く、ユーモアとともに綴ってある、それがアレナスの自伝だ。彼が後年になって脱出したアメリカで書いたものだ。

彼は亡命したアメリカであちこちに呼ばれた。特にキューバ革命の成就に熱狂した、いわゆる左翼知識人という人たちに呼ばれて、あちこちの会合に出たり、話をした。アレナスは当然、キューバで自分がいかにひどい迫害を受けたかを語った。現在のキューバの体制は間違っていると。自分たちが信じた革命の生み出した国家はしかし間違っているということを左翼のインテリたちは分かってくれるはずだった。しかし左翼は耳を貸さなかった。アレナスは、こいつらはどうしようもない左翼だと思った。机上の理論は知っていても、現実の、本当にひどいキューバを知らないと。自分たちの信じる理念がこの世界で始めてゲバラカストロという人物を通じて革命を起こし、新たなキューバを作った。その喜びの前では、アメリカの左翼インテリたちは、自分たちが理念的に信じるキューバで現実に、明らかに起こっている性的少数者への迫害を無視した。まさに見て見ぬふりをしたのだった。

さて、この話からどのような教訓を引き出せばいいのか? 僕はまだ考えている。しかしとりあえず分かるのは、性的少数者を迫害し、収容所へ叩き込むような国家が明らかに間違っているということ。そして、個人の最低限の権利が不当に侵害されるような状況が現実に生起しているにも関わらずそれに目をつぶることで、自ら信じる理念の無謬性を維持しようとする左翼が間違っていること。この二つだ。ただそうは言っても、自分が将来、政治的にどのような立場を取るのか、また取るべきなのか、自分でもまだ分かっていない。あるいは、政治的にいかなる立場を取ることも拒否するのか。つまり自分一人だけのための個人主義か。

ま 今日はこんなとこか。