A Note

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これを読むと、ただこの世界の労働者の生活を向上させるために一生を捧げたことで、他の誰でもないマルクス自身が支払わなければならなかった犠牲の大きさは、とても言葉で表せるようなものじゃない。ようやくイギリスに落ち着く前に各国を追放されているし、出版される当てもなくひたすら書き継いでいく原稿がまさか金を生むはずもないから、一生を貧困に悩まされて過ごした。しかもたしか、その貧しさのもたらす窮乏のせいで自分の子どもが何人も死んでいる。

しかしこう書くことでマルクスに尊敬や畏敬の念を表すというのとも何かちがう。つまり言いたいのは、ただ理解を超えているということだ。こんなことができる人間がいるという事実に驚くしかない。狂っていると思うしかない。マルクスが生前に、自分の支払った犠牲に見合うだけの対価を得なかったということは断言できる。世界はマルクスに対して莫大な借りがある。しかし彼はすでに死んでいる。

この世界はある種の天才たちに対して決してフェアな扱いをしてこなかったし、これからも決してすることができないだろう。その人たちは他の誰よりも敬われ、丁寧に扱われ、経済的に恵まれた、安楽な暮らしを送る権利を持っているのにも関わらず決してそれらを手にすることのないまま、惨めに、貧困の中で、孤独に死ぬのだ。これは絶対にフェアなことではない。しかしこの先も絶対に変わらないだろう。また変える方法もない。世界は完全ではないのだ。

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なんか常にこんなふうに何でもいいから書きまくってないと落ち着かないんだけど、きっと書くことが自らの精神の健康に役立っていると思えるような人はたくさんいるんだろうな。ある種の人にとっては、書くことは救済だ。

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ちょっと頭のいい人とかだと若い頃に博覧強記に憧れたりすると思うんだけど、今改めて考えてみるとそんなの何ほどのことでもないよね。何をどれだけ知ってようと、まあ誰だって本たくさん読めばそりゃ知識の量はあるでしょ、としか言えないんだし。しかも知識の量そのもので勝負したらどんな人間だろうと絶対にGoogleに叶わない。へーよく知ってるね、でもまあGoogleのほうが物知りだけどねで終わりだ。

つまり知識の量そのものはまったく問題ではなくて、問題はその溜め込んだ知識を好きなときに呼び出して組み合わせて自分の思い通りに、他の誰とも違うまったくオリジナルなやり方で使えるかどうかにかかってるだろうね。せっかく人間なんだからGoogleにできないことをやったほうがいい。Googleはこれ持ってきてと言ったら持ってきてくれるんだけど、じゃあこれ考えてと言われても考えられないんだよね。そこから人間の仕事がはじまる。

walking dictionaryって言葉があるけど、よし辞書になってやろうと思ってガーっと読むのは動機が変なんだろうな、変というか間違ってるというか。人間が辞書だったら悲しいねと思うし。そうではなくてこの概念をきちんと考えるためにはこの本が必要だな、あ、じゃあこれも必要じゃん、みたいにどんどん分岐して読んでいって、気がついたらおお結構読んだなあみたいになればいいと思う。

知ったかぶりとか知識のひけらかしとかにもまったく意味がない。なんか昔はもっと頭良く見せよう見せようみたいなこと考えてたんだけど、今昔の自分にあったら、君若いねえバカだねえと言うはず。でも知ったかぶりしたあとで、ヤベ本当はよく分かんないから本読もうってなればそれにも意味あると思うんだけど、でも基本的には私はこれこれのことを知っていますと誇るんじゃなくて、むしろこれこれのことしか知りませんということを誇れたほうがいい。

何を知ってるかじゃなくて何を考えられるかで競うクイズがあったほうがいいよね。どういうのかちょっと思いつかないけど。なんか東大生をクイズに出してオォーさすが東大生ですね何でも知ってますねなんてやってるのがあったけど、ちょっとなぁ、というかそんなんねぇ、ところで今度僕と干し芋でも食べませんか?ってなっちゃうだろうな。

とりあえず書いたから消さずに送信。

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"…人間には、自分自身の本当の欲望にしたがって生きることは難しい。例えば人がある種の組織に所属するとき、そこで着ることの義務付けらている服を一般的に制服というが、だいたいの人は、その種の拘束具から解放された私的な時間には、自分は自分の欲しい服を買って自由に着ているのだと思っている。実は誰かに脅されてこのジャケットを着ていますとか、このメガネをかけていますという不幸な人がほんの少しだけいるかもしれないが、しかし特殊な例だろう。みんな自分は自分の欲しい服を選択し、それを買って着ているのだと思っている。

しかしその選択も必ずある枠組みの中へ収まり、決してそこからはみ出さないように規定されている。まず、服を買うときは服屋に行くのであって、肉屋に行くのではない。なぜだろうか。別に肉屋に行って生肉でワンピースでも作ってもらってそれを着て街を歩いても悪くはないと思う。しかしLady Gagaでなければそんなことはしない。なぜならこの社会には肉を着てはならないというルールがあり、みんなそのルールに従うからだ。本当に自由に選べるのであれば肉の服さえ選ぶことができるはずだ。しかしそうではない。

あるいは、その時点における世間的な服装の流行が個人の選択をある範囲の中にとどめ、本当に自由な選択を許さない。つまり、今はこれが流行っているからこれを着たいと思って商品を購入した人。しかしその人のその欲望は偽物かもしれず、代わりに、今はこれが流行っているからこれを着なければならないのだという自分自身への内的な命令に従ってその服を選んだのかも知れない。これはちょっと前に街でみんな着てたやつだからやめとこ、と思ってもよく考えると本当はそっちのほうが欲しいのかも知れない…"



たったこの程度のことを書くにも、ちょっとずつ、ここが説明が足りないとか冗長だとか頭の中でつぶやきながら、推敲しながらだ。3分では書けないし、しかも自分の文体とは思えない。まだ自分のペンで手で書いたような気がしない。たぶん何十万文字、何百万文字と書いているうちに徐々にその人の "スタイル" と呼べる何かが確立していく。

文章の内容は目新しいことの何も無い、個人の自由な振る舞いを限定する社会的な規範とか、どこでも見るような、すでに100万人が同じことを書いたような… でも使い古しが重要でないわけではないし、この文章自体は取るに足らない、どうでもいいものだが、その意味すること自体に限って言えば大切だ。

もしも人間が自分はどれだけ自由なのか知りたいと思うとき、その知識に到達するための経路は一つしかない。それは自分がどれだけ不自由なのか知ることだ。自分が何を知っているのかを知りたいなら、自分がいかに何も知らないのかを知るしかない。そのために本がある。一冊読むごとに自分は少しずつ自由になり、世界は少しずつその深みを増す。僕が本の気に入っているのはそのことだ。