A Note

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なんかこんなふうにずっととりとめなく書いてるとあたりまえだけど、自分が前に書いた文章が残ってるから読めるんだけど、自分の書いた文章を読んで結構おもしろかったりもするな。お、こいついいこと言うじゃんとか思いながら。一方では自分で書いた文章は全然読めないわとか恥ずかしいわって人がいると思うんだけどこれなんで違うのか。自分で書いた文章を自分で読んでけっこう面白い派だな。まあ別に大したこと言ってないけどその心意気やよしってところですな、と思いながら今はオリンピックのときに国母君が人気者だったあの頃自分で書いた文章を読んでた。


alternative人生をcreativeに切り開く必要性について若者らしく語ってるな、この人は。それでもそういうのって誰にでも可能なことじゃなくて、やっぱりある程度の知的体力と行動力が必要なんだろう。自分にそれがあることを願うばかりだ。

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ありがとうアラン・チューリング。僕はまだチューリングマシンの概念さえ完全につかめてないくらいのアホだよ。でもあなたが本物の天才だったことはわかるからここでせめて感謝だけさせてもらうよ。

さて、これだけPCも携帯も行き渡った今では、脳みそをコンピューターの比喩で語る言い方をよく見かける。ここでもそのやり方を使わせてもらうと、僕が疑問に思うのは、脳みそにもプロセッサでいうところのクロック数みたいな概念に対応するものがあるのだろうかということだ。最近はスマドラとかもあるみたいだけどあれってクロックアップなのか、違うのか。

そしてチューリングみたいな天才とそのへんの普通の人の脳みそに何か器質的な違いがあるのか。人間は脳で考える。だとすれば天才と凡人とは脳が違うはずだ。しかし何が違うのか。何か明らかになっていることがないのか。それとも、いや少なくとも物質的にはまったく同一の脳みそでも一方がチューリングで一方が凡人ということがありうるんだ、つまりそれはインストールしてあるプログラムとか思考アルゴリズムとかの最適化の問題なんだ、みたいなことなのか。

あるいは、あとはサッカー見て寝るのか。

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一般的に言って臆病と勇敢とは対立する価値だと思われてるけど実はこれは一体のものだ。世間的に勇敢だとか勇気があるとか言われるような人は必ず、自分が誰よりも臆病な人間であるということを知っている。そして自己自身に関するまさにその知識があることよってその人は勇敢だ。まず自分の中の恐れや迷いを正面から見据えて認識し、それを克服しようと意志するところにはじめて、結果的に、勇気や勇敢の言葉で形容されるような行動が生まれてくるだけだ。同様にして、強くなりうるのは自分が弱いと知っている人だけだ。また本当に優しくなれるのは孤独の意味を知っている人だけだ。"学校で孤独に耐える術を教えよ"  ニーチェは書いていた。僕はその意見に賛成だ。心から。

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自分のとこのフォルダにどんな写真入ってるのかなと思って見てたらこれは朝日の素粒子。新聞記者って頭悪いくせに偉そうにしてるから本当に最低の連中だよなと思うんだけど、でもこのくらいユーモアがあったらこういうのを書ける人だったら友達になれるかもって気になるね。風刺としてよく出来てると思うし。とにかく日本の新聞って機知とか風刺の精神が完全に欠落してるから読んでてまったく面白くないわ。例えばきっとフランスの新聞ってこんなんじゃないだろうな。読んだことないから分かんないのに断定して言うけど、ル・モンドとか絶対日本の新聞と違ってもっと知的に笑えるネタがいっぱいあるだろうな、一応エスプリと色事の国ってことになってるから期待するんだけど。まあ今色事は全然関係ないけど。そして自分には、そんなこと言ってるうちにさっさと勉強してフランス語読めるようになれやと言いたいな。おお、ばかもの!

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なんかwikipediaってお手頃だからすぐ読んで分かった気になれるけどよくないかもしれない。それでもお手軽だから読んでしまう。フーコーを読んだことないんだけど書いてるのがどれも哲学者というよりはまるで歴史家の本みたいなんだな。絶対に歴史をやらなければならなかったんだろう。内側からそのように要請されて書いた。

個人史で目を引かれたのが22歳と24歳くらいの頃に2回自殺未遂をしていることだ。記述されてない別件があるかもしれないけど少なくとも2回のそれが記録されている。単純にああキツかったんだなあと思う。これは同情とも違う感情のようだ。ただ何も言わずに黙って隣に立っている感じ。

誰でもその人に固有の地獄を生きているわけだ。そこへ本人以外の誰が立ち入ることも原理的に不可能であるような薄暗い静かな場所へ一人一人が置き去りにされている。これまでに自殺未遂ってしたことないし、自分で認識する限りでは自殺念慮さえ一度も持ったことはないから分からないんだけど、一切の希望が絶たれた場所に着いたということだろう。

首吊りか、それとも鎮静剤を大量に服用したのか、彼が死のうとしたときに選択した手段が分からないが、結局フーコーは死なずに(死ねずに)生きて哲学者になった。一度死のうとして生き残ったときに何を考えたのだろうか。私は死ぬことにさえ成功しなかったと考えて心から自分を軽蔑したのか、それとも自分は生かされたのかもしれないというような認識を得て、わずかに感じられる光の感覚とともにこの世界に帰ってきたのか。

いずれにせよその種の経験を経て、人は自分に決して消えない模様を刻みこむだろうし、その先も折にふれてその凹凸を指先で触るだろう。その感触から何かを得ただろうか。


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Q. コップに水が半分入っています。もう半分しかないと思うか、まだ半分もあると思うか、あなたはどちらですか?
A. コップを破壊します

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なんか昔の社会主義者とかアナーキストとかって精神の強靭さがまったく違うな。自分なんてマルクスのウンコが風化した粒子の一粒でさえない。こんなやつは。ほんとお前死ねって言いたいな。死ぬかなんかやるかだと。つまりただ命があることと生きていることとはまったく別のことだからね。

死ねなんて人には絶対言いたくないけどこれは自分にだから言ってもいいと思うんだけど、でもそこにも問答があるわけだね。つまり誰の中にも、自分に向かって死ねという主体と、それに応答していや生きるねという主体があるわけだ。そいつらの間で、死ね、いや生きるね、いや死ね、いやいや生きるね、むしろ死ねという君が死ねよ、みたいな問答が自分の中で発生して勝手に元気づけられていくということがあるね。別に三つ目の主体がいてもいいんだけどね。ちょっとちょっと喧嘩はよしましょうよ、とかいって石川遼みたいなやつが来てさ。うるせー石川遼は引っ込んでろとかいって賑やかにね。


  "職業は?" 
  "革命家です"
  "もし捕まれば処刑されるでしょうね?"
  "はは、分かりきったことですよね"


みたいなやりとりが普通に成立していた時代。強靭な知力と精神力。それに正義の感覚だな。fairnessの感覚に貫かれてないとこんなことできない。どうやらこの世界には搾取するものとされる側の構造があるようだなということは誰でも察知してるわけだけど、それに対してどう反応するかでその人間の偉大さが決定するね。

大きく分けて三つかな。一つは家畜的な労働者に甘んじる立場。二つ目は奮起して搾取する側に回ろうとする立場。三つ目はシステムそのものの変革を志す立場。マルクスとかゲバラとか革命家はみんな三つ目だ。

まあほとんどの人は甘んじるよね。どうなってんだよクソとかいいながら酒のんで寝て絶望しながら日々をこなしていくということだね。無抵抗的悲観主義みたいな感じで、ただ現実の不条理とか社会の汚さに打ちのめされて、それでもそれ意外にエサがないので咀嚼し飲み下しつつシステムの従順な家畜になる。

まあそれじゃ悲しいからなんとかしたいね。ただ、まずとりあえず本読みまくって武装してからじゃないと武器がないんでそれをまず若い時に自分で作るということだろうな、個性的な武器を。

ただ言うまでもないけとだけどこの世界で一番危険なのが正義という考え方なので、そのへんをどう自分の中で調停するのか。崇高な理念や正しい目的はいかなる手段をも正当化するのか。つまりある理念を実現するために究極的には殺人が許容されうるという考え方は正しいのか正しくないのか。

基本的には平和主義者だし絶対に誰も殺すな、でも本当に悪いやつは殺していいという考え方はおかしくないのかおかしくないのか。無害なパレスチナの子供らの眉間を撃ちぬいて殺すイスラエル兵のスナイパーと、イスラエルの市街地にロケットを飛ばして子供を殺すハマスのメンバーとどちらがより悪いのか。この種の疑問を考えるために倫理学の教科書とドストエフスキーの小説とどちらがより役に立つのか、それともどちらも読んだほうがいいのか。それともこんなことは考える必要がないのか。

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  1. ネットフリックスが2007年に動画配信を開始してから利用者は拡大の一途、店舗型のレンタル店は駆逐されつつある
  2. しかし懸念されているのはトラフィックの激増で、ある調査によると全米20時から22時の総転送量の実に20%をネットフリックスが占めている
  3. とはいえ、基本的にこの流れが変わることはないだろう


日本ではまだまだ店舗型のビデオ屋も元気だ。いつも思うのは、レンタルビジネスの収益構造のなかで延滞料収入が占めている役割について誰か調べてblogでも書いて欲しいな。やべ返すの忘れてたってなると、ああやられたと思う、すごく損した気分になるあの独特の嫌な感じをよく味わってきた。