A Note

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エゴイズム小論 坂口安吾

 私は十数年前に一人の女を知つてゐた。人妻であつたが千人の男を知りたいといふ考へをもつてをり、大学生などと泊り歩いてゐた女で、そのうちに離縁され花柳病になつて行き場に窮して私達のアパートの一室へ転がりこんできたので、自分の欲望のため以外には人のことなど考へることのない女であるから、男にも女にも友達がなく、行き場がなかつたのである。私達のアパートといふのは東京ではなく、ある地方の都市で、私はくされ縁の女とそんなところへ落ちのびてきて人は(私は)なんの為に生きるのであらうかと考へて、その虚しさと切なさに苦悶してゐた。私は毎日図書館へ行つて、仕方なしに本を読んでゐた。自分が信頼されず、何か書物の中に私自身の考へごとが書かれてゐないかと、然し、私は本をひらいてボンヤリするだけで本も読む力がなかつたのだ。ころがりこんできた女は花柳病の医者へ通つてゐたが、その医者を口説いて失敗したさうで、ダンスホールへ毎日男をさがしに行き、毎日あぶれて帰つてきて、ひとりの寝床へもぐりこむ。その冷い寝床へもぐりこむ姿がまるで老婆のやうで色気といふものが微塵もないので、私は暗然たる思ひになつたものだ。
 私はそのとき思つた。男女の肉体の場ですら、この女のやうに自分の快楽を追ふだけといふことは駄目なのだ、と。マノン・レスコオとか、リエゾン・ダンヂュルーズの侯爵夫人の如き天性の娼婦は、美のため男を惑はすためにあらゆる技術を用ひ、男に与へる陶酔の代償として当然の報酬をもとめてゐるだけの天性の技術者であり、そのため己れを犠牲にし、絶食はおろか、己れの肉慾の快楽すらも犠牲にしてゐるものなのである。かゝる肉慾の場に於ても、娼婦型の偉大なる者はエゴイストではないのである。エゴイストは必ず負ける。家庭がかゝる天性の娼婦に敗れ去るのは如何とも仕方がない。


きっと相手の快楽を心から尊重しまた自分のそれは強い理性によって完全に抑制できるときに初めて、世間でいう色気というものが振る舞いや言動へ滲むのではないだろうか。

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なんなんだよあの、官房長官の菅というハゲは。あいつの顔をテレビで見るたびにムカつく。だいたい政権のスポークスパーソンなんだからもっと見栄えのする人物を据えろよ。対外的な顔として機能するポジションなんだから、あんな貧相で意地悪な顔の、腐敗した小役人みたいなやつじゃだめだよ。

企業の受付にわざわざ不美人を選ぶ会社なんてないでしょう? 受付でなくても女性が顔で採用される、アンフェアにも思える事例はどこにでもある。

ただそこに理由はある。それはつまり本人の容姿も重要な能力の一つだからだ。あるいは少なくともオッサン方がそう考えている。そこにはもちろん厳然たる容姿差別があるわけだけど、そうであるしかないし、他のやり方はきっとないでしょう。

脳を器質的にある種のマシンの装着により可逆的にいじって美醜失認処理を行うという手法をlookismに対する対処としてその短編のうちに、思考実験として追求していたのはテッド.チャンだった。結局そういうやり方しかないと思った。

とりあえず菅は代えてくれないかな。日本の不利益にもなってると思うし。