A Note

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老人というものは、口を開けば、昔はよかった、昔の芸人は芸がたしかであった、今の芸人は見られないと言う。何千年前から、老人は常にそう言うキマリのものなのだ。それは彼らが時代というものに取り残されているからで、彼らの生活が、すでに終っているからだ。

これを知れば、現代の貧困などゝいう言葉は在り得ない。現代は貧困でも豊富でもない。現代は常にたゞ現実の生活であり、ギリギリの物なのである。


三丁目の夕日」みたいな映画を懐かしがってノスタルジアに圧倒されて涙まで流しているような人たちはその時代の現実を捉えそこねている。過去は常に美化される、というクリシェがあるがそれがクリシェになり生き続けるのはそれなりの真実をついているからだ。

普通に考えて「昔は良かった」はずはない。男尊女卑国家である日本で恥ずかしくも未だに普遍的な女性蔑視、ミソジニーは今よりさらにひどかったに決まっているし、あるいは親父に殴られる息子が「子供の権利」などと口に出せばまず声も出ないほど驚かれ次の瞬間には再び殴られていただろう。

いつの時代も根本的に言って世界はどうしようもない場所だし、人間は愚かだ、その基本的な最初の規定はこの動物がやがてその自身の愚劣さによってかそれとも他の何らかの原因で滅びるまで絶対に変わらない。ただ現実を見れば衣食住という生存の基礎的な面において人間の生活条件は昔よりも良くなり続けているのが確かだ。

100年前なら死ななければならなかった赤ん坊が今では命を救われるし、300年前なら木の皮を剥いでまで食べようとした地獄のような飢饉も少なくとも現代の日本では起こらない。それは良いことなのか悪いことなのか、もちろん良いことに決まっている。時折社会に食物が広く不足して栄養失調・飢えで人が数万の単位で死ぬような時代を理想的だと評価するのは難しい。

話の最後に結びとして、方向を変えてもう少し概念的な話をすれば、過去や未来という考えかたそのものに少し人の精神にとって有害な気を逸らすものがあると思う。つまり課題や困難は常に現在にしかあり得ないわけだけどそこから精神を逃して時間軸の前方、後方に意識を飛ばすことで一休みさせる効果がある。それともこれは臆病で怠惰な僕だけのやり方なのかもしれないけど。