A Note

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番組内容

ニューヨーク在住の前衛芸術家、篠原有司男(82)・乃り子(61)夫妻がいまアメリカで脚光を浴びている。夫妻の制作活動と生活を描いたドキュメンタリー映画が公開されたことがきっかけだった。商業主義が幅を利かせるアメリカの現代アートの世界で、生活が困窮しても自らのスタイルを貫く夫妻の姿は、芸術とは何なのかを、いま改めてアメリカ人に訴えかけている。篠原夫妻の制作にかける日々を紹介する。


ボクシングペインティングのギュウチャンとその奥さんがNYで日々、仲良く、喧嘩しつつ、ときおりアル中気味の息子をリビングに迎えご飯を食べ、お互い対等のアーティストとして制作をし、決して潤沢とは言えない生活資金を巡って口論し、ギャラリストと作品展示に向けた交渉などこなしながらStruggleする姿を描いたDocumentary Filmがあるのだが、上で言及されているそれ*1 | *2だ、僕は何ヶ月か前に見たのだけど面白かった。最近見たDocuの中でもかなりよくて水準以上の、いい出来の作品だったので僕は何かスクリプトに基づかない映像が見たいと思って探している人には勧める。僕もそうだがときどき劇映画でないDocumentaryが見たくなる人がいると思う。最近だと自分ならYoutubeでAl-Jazeeraや、あるいはViceのDocuを探して簡単に見ることも多いな。それらの作り手がYoutubeにHostしている作品の中には結構掘り出し物があるんだよね。

映画を見て感じたが、ギュウチャンの奥さんは61歳という実年齢に全然そぐわない、中学生の少女のような雰囲気をいまだに保った不思議で魅力的な人だ。作中で奥さんの手になる絵を通じて語られる篠原との馴れ初めがいかにも芸術家同士のようで面白かった。彼女がまだ若くて世間知らずの美大の学生だったときに、どういう経緯か、NYにいた篠原に会いに行った。二人の年齢は21歳離れているから、もし仮にそのときの彼女が20歳だったとすれば篠原は41歳だった。そしてその洗練とは無縁の(失礼)野獣のような(たぶん)男に魅せられたのである。僕はきっと肉体よりも頭が勝ちすぎているから獣みたいな野蛮さには憧れるな。賢しらで知識の豊かな人間なんてどこにでもいるが、本当の意味の野蛮さや無謀さを無くしていない人間にはほとんど会うことがない。僕の理想の人間はそういうやつだ。知的にとても高いのと同時に最低の馬鹿であるという人間。ギュウチャンはそういうところあると思う。作品制作で飯を食っていこうとするなんてそもそも馬鹿だけどそれをNYでいまだに続けている。芸術家として生きる上でこれまでにいろいろな犠牲を払ったかもしれないが、人生に筋が通っているところを尊敬する。

人間がその人生で果たして成功したかどうかを決して稼いだ金の多さで測れるものじゃない。そんなことは当たり前のはずなのだが、しかしどれだけ稼ぐかを人の価値を推し量る基準にするようなある意味ではクソみたいな下品な思考が僕たちの脳にこびりついているでしょう? Goldman Sachsで年に5000万稼いでいるBankerが絶えざるストレスによる鬱病でいつも死にたいと思っていかなる幸福とも無縁なLife Sucksである可能性なんて常にある。人間が本当にどう生きたらいいのか街を行く人は分かっているような顔をして歩いているが、実際は誰一人何も分かってなんかいないんだよ。どれだけ賢い人間でさえ、人がどう生きたらいいか、その究極の問いに答えることができるほどには賢くない。僕はもともと人間という動物をそれほど高く評価してない。かなり思い上がっているし、自分たちが思っているほどには賢くない。その愚かさによってそう遠くないうちに絶滅してもおかしくないと思う。

少し話が逸れたが、人間の価値を稼ぐ金ではかれないと書いていて僕がふと思い出すのは、何年か前にNHKスペシャルか、そうではないにしろその局が制作した「婚活」に関するドキュメンタリーのいちシーンだ。具体的にはこうだ。ある女性がこれまでに数々の婚活パーティーに参加して、相手の男に関するメモを取ってきている。それはいわば結婚というプロジェクトに関する彼女の重要な履歴だ。カメラは彼女の肩越しに寄りそのメモを撮すのだが、それが僕には少なからず面白いものだった。つまりそのメモ書きというのが、男の名前を左、そして彼の年収を右隣に記し、それを縦にひたすら列記した表なのである。もちろん男たちの名前はモザイクで不明瞭にされていたが、例えば「中村彰吾  640万」などとそんな感じで、ただ男の名前がそいつの稼ぐ金額に矮小化されてそれが縦に並びリストにされている。

僕がこの番組の制作責任者なら「いい画が撮れた」と思って喜ぶような典型的な素晴らしいシーンだと感じた笑 要するに彼女は金のことを気にしすぎるあまり、結婚という重要な人生の選択を相手の年収というたかが数字にまで矮小化してしまったのである。もしかしたらその女性が比較的貧しい育ちで、もう絶対にこれから金の心配をしたくないと思ったかどうか分からないよ。またその場合その浅はかな態度に同情の余地もあると思う。ただ、左に男の名前、そしてすぐに右隣に年収というとても明確で単純なあのテーブル=表は苦笑と悲しみを同時に誘うような「面白い」ものだった。僕はいまでもよく覚えている。