A Note

^_^


最近SEXの話題ばかりみたいだけど、それが人間の最も原始的で強力な欲望の一つだという事実を考えると何も不思議なことはないね。日本人って卑猥なやり方以外でただ日常の話題として気軽にSEXを語らない民族なんじゃない。それを日本人の幼児性と簡単に言ってしまうと何か違うかもしれないけど。SEXの話って別に仕方ない飲み屋のエロ話だけでなくて、もっと賢く抑制の効いたやり方でできるものだからね。みんなもういい大人であるということを考えればそれが望ましい。

上の記事はGayの人たち用のhook-up app「Grindr」と、そしてそのアプリを例によってアメリカ西海岸で開発し、育て、富を築いた、自らもGayである近々40歳になろうとするCEOの来歴を紹介するもの。「hook-up」という語は、早い話が「BarやClubで意気投合しホテルへ」的なカジュアルで話の早いSEX、またそれが表すカルチャーそのものをおおまかに名指す言葉なんだよね。in short「行きずりのSEX」ね。行きずりのSEX、ってなんか響きがいいんだよね。きっと「いきずり」の「ず」の濁音であることがその卑猥で独特の深みを持つ響きを醸すために主要な働きをしているという僕の分析です。以下に「hook-up」の辞書的な意味を引く:

hook-up


a temporary connection between two pieces of equipment such as computers, or between a piece of equipment and an electricity or water supply
(コンピューターとか電気関係とか水回りとかの細々した道具やケーブルを一時的にちょっと繋げたりすること)


だから単に無機物としてのequipmentだけでなくて、その適用範囲を温かな身体にまで拡張して、人と人とがそれぞれの有機的な器官=equipmentを一時的に行きずりでちょっと繋げることがhook-upなんだよね。みんな表面的には何でもないふりの無表情でやり過ごしながら実は人の温もりや繋がりに飢えているのであって、たまに行きずりで物理的に繋がることは、それが双方にとっておおむね楽しく有意義な時間である限り素晴らしい。SEXを旧来の封建的なモラルから切り離し、離脱させて、それがたとえ瞬間の重なりだとしても、束の間お互いの孤独を癒やし快楽を分け合うポジティブな愛の行為としてとらえたほうがいい。

上野の雑然とした飲み屋でたまたま隣同士飲んでいた女性が調子よく酔って「アパホテル」がどうのと言い出したあの日、結局二人でどんな室内にも行かなかったことを思い出した。彼女が提示したその固有名詞があの夜僕に喚起したのは、素晴らしく華やかで巨大な帽子に特徴のあるあの女社長の顔だけだった。連絡先も交換せず別れたあの女性に、これからまた会うこともないだろう。これはある日繋がらなかったことの例。

          • -


このCNN.comのLive feedによれば、Sydneyのカフェで発生していた人質事件は、最終的に警察あるいは特殊部隊の突入によってすでに終了した模様。またその際、銃声が聞かれたとのこと。latestのupdateを引用:

Reports of injuries
(けが人が出ている)


Australian state broadcaster ABC reports: "A number of people have been hit."
(ABCのリポートによれば「何人かが銃弾を受けている」)


大事に至らないといいけど。この種の事件においてまず当然、人質の感じる強烈なストレスや恐怖があるわけだけど、僕がふいに思ったのは、もし自分は巻き込まれなくとも、中に恋人や家族が囚われているのが分かっていたとしたら、そういう人も、とても生きた心地がしないだろうな。ここまで書いてCNNのfeedを開き放しにしたタブに目をやると、悪いupdateが来ていた:

Deaths reported
(人質に死亡者が出ている)


Two people are dead and three are in serious condition, Australian broadcaster ABC reported.
(現在のところ2人が死亡し、そして3人が危険な状態にある。ABCのリポート)


We do not know yet what's happened to the gunman.
(実行犯がどうなったか、まだ明らかになっていない)

          • -


Sydney Siege live feed


シドニーのカフェで、人質事件が現在進行形で発生中。実行犯についてはISISとの関連が疑われる模様。人質の数は現在の報道から見ると10人と少し、から数十人まで、とばらつきがあり確定的でない。後で今日の夕方のニュースで、現場からの中継も入るかな。それまでに解決していることはまずないだろう。人質の無事を願うのみ。

          • -


昨日は選挙の投票日だったみたいだ。僕は興味がなかったので棄権した。ただもし入れるとしたら共産党だったね。昨日は僕にとっては、2年前に受けたTOEICの点数が公的には失効したので一応テストを受けてスコアを更新しておこう、という日だった。会場は新宿のイベントホールだった。リスニングのまさに最初の設問で不意打ちを食らったように聞き逃して、ランダムな回答をマークしたから、満点はなさそうだ。やられたと思った。集中してなかった。ただ、満点を取ろうという気持ちはなかったし、下らないと思ったから試験対策もしなかった。自分の感触では950点は堅いと思うし、別にそれでいい。そんなことよりNYTやNew Yorkerに載る水準の修辞と語彙で早く、きちんと書けるようにすべき。あとネイティブスピーカーと口げんかしてボロクソに言い負かすレベルの会話。とにかく、せめて英語くらいは早くまともに使えるようにしないと恥ずかしい。

          • -


いまや商業主義に完全に侵されたクリスマスという季節を快く思わない人が実は多いのだ、という枕で書き出されるこの経済学者によるエッセイは、「Abundance Without Attachment(豊かさそれ自体は良い、それに執着しなければ)」と題され、この記事の書き手である彼が近日のインドへの旅行で会った、無一物の僧侶との邂逅により受けた重要なインスピレーションに基づいている。その僧侶は流暢なテキサス訛りの英語を話した。なぜなら彼は元はインドからの移民の子としてアメリカで育ち、現地で大学を出、MBAの学位を取得し、そして石油業界に職を得、若干26歳になる頃にはすでに大きな金額を稼ぐようになっていたからである。しかしその人生に生きることの本質的な満足を見いだせなかったのか、自らのルーツであるインドに渡り、出家した。以下に引くのはその僧侶と書き手との会話:

As an economist, I was more than a little afraid to hear what this capitalist-turned-renunciant had to teach me. But I posed a query nonetheless: “Swami, is economic prosperity a good or bad thing?” I held my breath and waited for his answer.

“It’s good,” he replied. “It has saved millions of people in my country from starvation.”

This was not what I expected. “But you own almost nothing,” I pressed. “I was sure you’d say that money is corrupting.” He laughed at my naïveté. “There is nothing wrong with money, dude. The problem in life is attachment to money.” The formula for a good life, he explained, is simple: abundance without attachment.


書き手の「経済的な繁栄というのは、つまるところいいことなのか、それとも悪いことなのか?」という簡潔な問いに答えて僧侶は言うのだった。「金や富そのものが悪いわけではない、現にインドでは大勢の人がその金や富によって飢えから救われているよ。問題は、それに執着することだ」 正しいと思わせる。このやりとりに触発されて、彼は人生に本質的な幸福を見出す具体的な方法について考察し、さらに続けて記事を書いていく。金がたくさんあるのは別に悪いことではない、というのは確かだね。問題はその奴隷にならないことと、そして使い方だろう。面白いエッセイだった。