A Note

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nipponianippon2014-11-29

28歳の時、多量のシュウ酸を飲み自殺を試みるが未遂に終わる。

1983年2月、当時の大統領ロナルド・レーガン大統領自由勲章を送った。同年5月、老衰のため、80歳でその生涯を終えた。


ホッファーはもう10年くらい前に図書館でたしか彼のアフォリズムの集成を一冊、あとは彼について書かれた伝記をいつだったか借りて読んだきりで、どちらの内容もすでにおぼろげにも思い出せないな。上のwikipediaの項目において知る伝記的事実で、彼が28歳のとき自殺未遂をしているというのが目を引く。大学でときおり教えたことはあるにせよ在野の哲学者だ。大学に残ってカントやデリダに注釈をつけて一生を終わる先生方はきっと解釈学者ではあっても本人は決して哲学者ではないという人が多い。

自殺に関して言うとたしかミシェル・フーコーも似た年齢のとき、20台の半ばから後半という時期に、彼のほうは2回、自殺未遂をしていたはず。デリダドゥルーズキルケゴールハイデガー三木清西田幾多郎に関して何も知らないけどその人たちも若いころこの世界に前向きなものを何も期待することができないと思いつめてひたすら死にたかったとしてもぜんぜん不思議ではないし何も驚かない。というのは誰かの持つ哲学的センスと、その人の持つ自殺への危機とは明らかに関連すると思うからだ。いやドゥルーズの死因は、結局老年期に自らの肉体の衰えに耐えられないことから自ら決断して窓から身を投げたんだっけ。

「バカは風邪引かない」という言い方があって、僕はその言葉はまったく嘘だとおもうけど(笑、バカにも風邪を引く権利はある)「バカは自殺しない」とは言えるんじゃないかと思う。僕は自殺というのはまず第一に知的行為だと思う。自分の命を絶つほどこの世界に絶望するためには、ある深さを超えて自己そして社会について考え尽くす知的体力が必要だと思うからだ。

そして僕も自らの生を終わらせるため実際の行為を試みたことこそないものの、この世界に対する根源的な漠然とした絶望感は共有している気がする。僕が最低に下らない冗談やセックスジョーク、ひどい下ネタを積極的に多用するとしたらそれはきっとこの世界に心の底では多くのものを期待していないからだろう。つまり「この世界は本質的には笑い飛ばすしかないほどひどい」という絶望から冗談の精神が生まれる。これまで生まれてきた有名なコメディアンなんか、実生活ではみんな深刻なペシミストだったと思うな。

で引用箇所に戻るけど「大統領自由勲章」って、たしかものすごいものなんだよね。これは文民である合衆国市民が受けることのできる最高の勲章じゃなかったかな。今wikiでチェックするとボブ・ディランやヨーヨーマも受章者らしい… Get up, stand upしながらバッハの無伴奏チェロでも聞きながらホッファーの箴言でも読むか。


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Nymphomaniac and the infinite loneliness of Lars von Trier


「Fill all my holes」をたとえば「もうめちゃくちゃにして」と、戸田奈津子ではない僕にも訳すことができそうだが、トリアーの最新作は清々しいほど純然たる、SEXに関する映画であるように見える。とりあえず発見したリンクをメモする目的のpost.

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坂口安吾 好色と孤独

私は自分の病気中の経験から判断して、人間は(私は、と云う必要はないように思う)最も激しい孤独感に襲われたとき、最も好色になることを知った。
私は、思うに、孤独感の最も激しいものは、意志力を失いつつある時に起り、意力を失うことは抑制力を失うことでもあって、同時に最も好色になるのではないかと思った。
最後のギリギリのところで、孤独感と好色が、ただ二つだけ残されて、めざましく併存するということは、人間の孤独感というものが、人間を嫌うことからこずに、人間を愛することから由来していることを語ってくれているように思う。人間を愛すな、といったって、そうはいかない。どの人間かも分らない。たぶん、そうではなくて、ただ人間というものを愛し、そこから離れることのできないのが人間なのではあるまいか。


上のメモを書いた後で青空文庫にホストされている、坂口安吾の手になる下山事件に関して書かれたエッセイを読んでいたら、その文章のテーマ、および内容が、まさに上の映画評のタイトルの前部「Nymphomaniac and the infinite loneliness(性欲の過剰と無限の孤独)」に完全に合致するものだったので、その偶然を面白く思い、後で関連付けて言及することができそうなので書いておく。性欲の(ときに異様なほどの)亢進と、その人の感じている孤独感の強さには関係があると安吾は自分の経験から書くのだが、この記述には僕としてもうなずけるし、示唆に富んでいる。

SEXというのはおよそ僕らの取るあらゆるコミュニケーション手段の中で、人間同士の距離が物理的にもっとも近いことを必然的に要請する(全裸で抱き合うこと、ディープキス、性器の挿入、を含む無限の親密な行為)

極度の孤独が人間をSEXに駆り立てるメカニズムがあるとしたら、それは人が完全な孤独に耐えられない動物であるという事実を考えた時、その苦痛からの、防衛機制としての関係性の側への逃走行為として自然に、論理的に理解できる。

あとできっとまた。