A Note

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僕は顔も含めて姿形の美しい女性を見ると、もちろんどうしようもなく目を引かれるが、その対象に没入していた意識のふいに剥がれた瞬間に、そうでない女性のことを考えることもある。そうでない女性とは顔も姿もそれほど美しくない女性のことだ。そしてこの世界には前者よりも後者の女性が圧倒的な多数を占めている。

もしも人間という動物が物理的な基礎づけを持たない意識、思念、意思、なんと呼ぶこともできるがその種の不定形の、純粋に精神的な生命体だったとしたらどうだろうか、と考えた。もしもその場合、私たちは顔の造作やスタイルといったものに注目せずに、ただ互いの魂の美しさだけを見て、友人や恋人、結婚相手を選ぶことになるだろう。なぜならその世界において私たちは顔も体も持たないからである。

その世界においては胸や尻の大きさ、顔の美醜や手足の長さといった肉体的な美はもういっさい競われず、人々はただ単純に自らの精神を高め、人格を磨くことが求められるだけなのだ。そんな世界ではペニスの大きさなど誰も気にしない。なぜなら誰もペニスを持たないゆえである。では純粋に魂だけとなって浮遊し交わる人々がどのようにして生殖するのか、ということは僕に聞かれたって分からぬ。そればかりは実際にその世界に住んでみぬことには何とも言えぬ。

ふいに、やけに時代がかった「ぬ」とかいう語尾が出てきてしまったが別に何か意図があっての話ではない。だいたい僕には意図や策略というものが馴染まぬ。

すべての人間が肉体という悪魔の牢獄から抜け出し魂のみとなった世界では、手足の長い美人もデブのブスもいなくなる。その世界では雑誌のカバーを飾る人間ほど美しくはない自らの体を鏡に写してため息をつくこともない。老いに苦しむこともない。こう考えてみるとき、この世界で肉体の若さそして美しさという基準がどれだけ私たちを縛っているかに気付かされる。

しかし当面の間は、というか人間が人間である以上は永久的に、私たちはその基準に縛られて翻弄されるしかなさそうだというのは確かなことである。だからたまにSports IllustratedのSwimsuits editionのような健康的な裸の雑誌を眺めて目を楽しませるのも必要なことであるという諦めの側に僕はつく。

上のWebsiteを開いて最初に出てくるKate Uptonというモデルは、ずっと人間になりたかったリスのプリンセスのように綺麗だ。もし彼女が家の近所に住んでいて朝にすれ違うことでもあれば、冗談で「Hi, princess」なんて挨拶するだろう。彼女はその美しさや名声にも関わらず傲慢なところの少しもない優しい女性である(これは純粋に僕の想像なのだが) だから少しはにかんで恥ずかしがりながら「Good morning」などとまるでリスのような可愛らしさで返事をしてくれる…。

人生は楽しむためにあるというのは間違いない。それはもちろん楽しくないことや辛いことが多いからそう言うわけで、もし誰の人生も楽しいことの過剰ではちきれそうだったらわざわざそんなことをいう必要はない。

人生というのはもともと楽しく設計されているものではない。だからセックスでもいいしスポーツでもいいが、勉強でも仕事でもいいが、自分で何とかして楽しく生きようと思って工夫しなければならないのがまた面倒くさい。僕はもともとが退廃的に出来ていて生きるのに向いていないから困っている。

元気いっぱいのポジティブ思考とは無縁の人間だ。前向き人間と足して中和したらちょうどいいのかもしれないが、例えば素潜りでウニを取りに行った海の底で、そのまま帰ってこないほうが楽なのではないかとごく僅かな時間でも考えてしまう自分を想像できる。まあ死ぬのは怖いから結局は戻ってくることになるだろうが、僕が退廃的というときに意味するのはそのようなことだ。

しかし今すぐ死ぬものではないから、僕が死ぬまで生きているうちは楽しく元気に生きたほうがいいのは自明だ。そしてそのような困難に満ちた渡世であってみれば、薄着の美人の笑顔をたまに眺めるのもなかなか悪いこととは言えぬ。