A Note

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アーサー・ミラーマリリン・モンローと結婚してたんだ。僕もマリリン・モンローと結婚してみたいなと思った。とはいえ、これはある意味ではおかしな発言かもしれない。

きっと芸術家同士の癒しがたい孤独が共鳴したんだろう。異端者同士の特殊な周波数で感応したのかもしれない。マリリン・モンロー、今だったらスカーレット・ヨハンソンが類似のポジションを占めているだろうか? 白人、金髪、セクシーで肉感的な女らしさ、というキーワードを挙げてみれば。

彼女は可愛すぎる。ウディ・アレンの「マッチポイント」を最近見た。傑作だと思った。ウディ・アレンはやっぱり力があるなと思った。脚本も巧みだ。ただ一言でいうとすれば、やはりスカーレット・ヨハンソンが可愛い映画だということに尽きる。僕は魅了された。

映画の中で彼女は役の付かない売れない女優の役を演じている。競争の激しいこの業界にとどまるか、それとも決意して別の世界に転じるかという段階にそろそろ差し掛かっている。彼女はイギリスにいるんだ。そういえばなぜだろうか? 出身はコロラドの設定だ。だとすれば合衆国で、おそらくLAでキャリアを求めるのが分かりやすい行き方ではないのか? とはいえ、それはいい。

彼女はロンドンで出席したパーティーである男に見初められて付き合っている。イギリスは階級社会だが、彼は出身階級の高い、実直で誠実そうな、ハンサムで長身の男だ。父親は田舎に豪華な別荘を持ち、休日にはそこに滞在して射撃を嗜み、という社会的な栄達を遂げた上流家庭の出身。

そうスカーレットの役名はノーラだ。ノーラ・ライス。ノーラは作中で語る。「彼、私に一目惚れしたの、熱心に付きまとってきたのよ、まるで追尾式のミサイルみたいに」

とはいえ無理のないことではある。なぜならノーラ=スカーレットには何か普通とは違う、輝くばかりの美しさがあるからだ。その役どころから言って彼女は、誰でも男なら一度見てしまえばろくに視線を外すことのできないような特別な引力を持つ女として描かれなければならない。ウディ・アレンは、スカーレット・ヨハンソンはその企図に成功していた。

作中で男がある女に惚れる。それも一目惚れだ。そのとき観客に「しかしこんな女に一目惚れはしないぞ」と思われたら映画はもう失敗している。この映画は違った。うまくいっていた。一目見れば誰でも絶対に抱きたくなるようなファム・ファタルを造形することに成功していた。

アーサー・ミラーの話に戻そう。

彼はマリリン・モンローと結婚したが後に結局は別れた。そしてインゲ・モラスという写真家と再婚した。彼女はMagnumに所属していたらしい。その二人の間に生まれた娘がまた美人なんだ。そしてその人の旦那はダニエル・デイ・ルイスだ。言うまでもなく一流の俳優だ。

なんとも華麗な類縁関係だ、などと考えた。高い才能は同等の才能と惹かれ合うということなのだろうか? コッポラの娘も映画を撮ったりする。偉大な親から偉大な子が生まれるということもあるのか。

僕の父親は賢いが普通の会社員だ。心の優しい寡黙な男だ。母親は美人だが普通の主婦だ。別に自慢するわけじゃないが、下手な女優よりは綺麗な顔立ちだ。

さて、僕はというとただのアホだ。これは少し困ったことだと考えてる。なんとかしなければならない問題だ。何らかの手段で何者かになりたいと思っている。人々の間で輝いて生きたいというのが欲深い僕の願いだ。自分に何かはあるような気がしている。それを才能と呼ぶかは別として。

両親が生きているうちに孫の顔くらいは見せてあげたい。とはいえ男だけでは子供は作れない。相手のいる話だ。しかし子供を作るか、作らないか、人間が決めることなのか。避妊に失敗して年貢の納め時ということになる連中がたくさんいる。僕はそうはなりたくない。可能な限り制御したいと思っている。しかし… いやいや、これは射精のタイミングの話じゃない。

まあ、何でもいい… 究極的には運が支配する世界だ、それに抗うことに意味はない。

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この世界を耐え忍ぶのも簡単なことではないが、自分自身に耐えるのもけっこう大変だ。僕がこの酷薄な世界に生まれてまだ30年と生きてないが、思い出して死にたくなるような出来事がいくつかある。精神的に低い時期に自己嫌悪の不味さを伴ってそれらの記憶が僕を訪れるとき、過去に復讐されているのだと思わされる。

しかしそれらはみんなそれぞれに大切な思い出でもある。これは反語的な冗談にして、同時に本心から思うことだ。始点が出生の瞬間、終点が死亡時刻であるような真っ白な数直線の上にいくら汚点を刻んでいけるかが生きることだ。

たとえば前にある程度大勢で、どこかの居酒屋で酒を飲んでいたときにいきなり口からゲロが吹き出したことがあった。きっと肝臓が担いきれる代謝の量を超えてたんだ。自分の体に申し訳ないことをした。もちろん、居酒屋にもだ…。

どの口からゲロが吹き出したか、というと他の誰でもない僕の口からさ。記憶によればかなり爽快な経験だった。誰かにかかっていなければいいが、どうだったか、他者に危害を加えなかったどうかに関して全然自信がない。僕の胃液が目に飛び込んで誰かが失明してたらどうしよう? 答え:「どうしようもない」

あのとき酩酊してかなりフラフラしていた。その場から逃げるように地下鉄に乗って家に帰ったのを覚えている。さすがに衆人環境の店内で派手にぶちかましたことで恥ずかしくなったのかな?

あのときその場にいた人の誰にも、それから一度も会っていない(みんな元気?) でも居酒屋の客席で突然ゲロを吹き出すやつなんてあまりいないから、ある意味では貴重な経験だったんじゃないか? あのとき一緒に飲んでいた人たちの間で自分のあだ名が「ゲロ男」になっていてどこかで面白く語られていれば、あのときゲロを吐いたかいがあったと思う。

しかしたいしたことではないだろうね。もっと派手にやらかしてしまう人がいるものだ。僕なんかぜんぜんかなわないよ。この世界には天才的に愚かな人がいるものだ。そしてそういう人がいてくれるおかげで、この陰鬱な世の中も束の間照らされる。だから本物の馬鹿は全然馬鹿にしたものじゃないし、僕は尊敬している。

(これはあまりおもしろくないけど書いたからWebに上げよう。そもそもここはもともと精神のゴミ捨て場みたいなものだからよく書けたものだけを上げる必要はないのだから。しかしこんなふうにWebにゴミみたいな文章でも書いていて思うことだけど、物書きをはじめ芸術家というのは間違いなく精神の露出狂だ。女優や俳優なんか本物の露出狂だと言えるね。

そういう仕事をする人はみんなどこか気が狂っていると思う。まあこれはある程度刺激的な表現だろうと認める。しかし本当のことだ。なぜそう言えるのかというと、自己存在そのものを商品に仕立てて売り物にし、それで金を稼ぐのは決して普通の仕事ではないからだ。その種の仕事を極めるためには誰も狂気の方へ身を寄せていかざるをえない)