A Note

^_^

なんか自分のことばかり書いて悪いけどblogってそういうものだから気にせず行くわ。「自分のことばかり…」と前置きできる程度の羞恥心があれば大丈夫だと思うんだよねと言ってしまえる傲慢さも併せ持ってる。

だって人と会ってるときなら絶対に自分の話ばかりなんてしないからさ。ここはblogであって会話ではないから、一つ放った文章に対する逐次的なレスポンスがないから必然的に自分の話ばかりになってしまうのであって、普段の会話でそんな感じだったらただの最低なやつだからね。

自分の話ばかりする人って最低でしょ。自分だけが楽しい会話なんて絶対に嫌だからね。だってそれじゃ相手が楽しくないわけでしょ、相手に対する敬意やサービス精神を失いたくないってことで、これはもちろん目の前の他者の尊重であるけど、それ以上に自分自身の美意識の問題なんだろうな。

自分のことばかり話して人の話は聞かないという人は例外なく醜く見えるから自分は絶対にそうなりたくないという美的な観点からの戒めなんだよね。逆に自分の話は控えめに、自慢話も武勇伝もせず、しかし相手の話は逸らさず真面目にきちんと目を見て聞くという人はおそらくかっこよく、またセクシーに見えるわけじゃん。

それはその人がきちんと自分を律して我慢しているからかっこよく見えるわけだし、そのおそらく知性に裏打ちされた抑制的な態度によって、誠実さという名の色気をまとっているものと考えていい。人間常に離見の見を忘れずに自分をモニターして、見られているという緊張感を失うことなくカッコつけてないとすぐかっこわるくなる。

カッコつけるというのは基本的にはやせ我慢のことだよね。武士は食わねど…なんて言葉があるけどまさにそれで、ろくに食えてもいないから歯にものが挟まってるはずもないのに楊枝を使ってる、という姿を滑稽だと思う人もいるかもしれないけど僕はかっこいいと思う。

現代の日常生活で言えば、いくら疲れててもため息をつかないとか、露骨に疲れた顔をしないとか、そういうことだよね。あといくら忙しくても「忙しい」と言わないとか。だってすぐ忙しい忙しいって言う人ってすごくダサいでしょ。そんなの誰だって忙しいんだからわざわざ口に出して言うことじゃない。少なくともその程度のプライドは持って生きるべきだよ。

これは結構真面目モードで書いたな。真面目モード、不真面目モード、エロ話モード、聖人モード、悪魔モードって色々内在させてる感じがある。自分の中に凄まじく底意地の悪いやつも住んでいるのは感じるもん。だから本当ジキルとハイドみたいなんだよね。史上最低のゲス野郎になりたいという欲望と、誰一人文句をつけられないほどの聖人になりたいという欲望とが仲良く同居してる気がする。

まあ振る舞いも道化的だし、他の誰とも分かち合えない孤独も感じるし、もしかしたら表現者には向いてるのかもしれない。これはもちろん孤独を自慢してるわけでは全然なくて、ただ生きるのにこちらが孤独を必要としてるんだけどさ。それを売り渡したらもはや自分が自分でなくなってしまうような、根本的な寂しさの核みたいなものが誰の中にもあるでしょう。そこから常に逃れたいけれども常に立ち戻らなければならない場所としての自分の中の一点、つまり地上に実在する土地ではない内なる故郷ね。

イードの言葉を思い出すよな。

故郷がある者はよい
どこでも故郷だと思える者はさらによい
どこも故郷だと思えない者がもっともよい


エドワード・サイード


今日はこの言葉の意味でも考えることにしようかな。