A Note

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本当にものが見えている人たちとの間で、決して慣れ合いに堕することのない、相互に独立して、尊敬に基づいた、緊張を失わない張り詰めた関係のうちに、自分の位置を占めて人生を送りたい。僕の願いはシンプルなことだ。ただそれだけだ。ということが分かった。これは重要なことで嬉しい。何年か前には人生に絶望して頭もおかしくなっていた。自分でも読みたくないと思ったのか、いつだったか過去ログを一切抹消してしまったことがあった笑

今は希望を持っているし、自分にもささやかながら何かできるかもしれないと思っている。これが暗闇を経由した者にしか感じられない光であるのかどうか分からない。とにかく何かやろう。もちろん、これからも皮肉や風刺を言い続けるつもりだ。その手法は捨てることなく磨き上げて、自分の武器として使い続けるつもりだ。僕は日本には風刺の精神が絶対的に不足していると思う。それは供給したい。

ところで無印良品でフリースのルームシューズを買った。ものがたくさん余っているのか税込550円のそれを半額で売っていたんだけど、これはいい買い物をした。シューズといっても骨組みの固い構造はなくて、要は厚手の生地で出来た靴下なのだ。足底にゴムのイボイボがついている。それをはいて自分自身に見せびらかして喜んでいる。まだまだ寒くて、足元への配慮が必要だ。寒さといえば、今ちょうど雪祭りをやってる。僕は全然興味ない。北海道の人間は雪祭りにはもともと興味はないんだ。だってそのへんが雪だらけだ。それを固めて雪像にしたのを見ても驚きも喜びもない。それでも来た人たちには楽しんでいって欲しいな。今中国の人が多いだろうな。

なんだか自分でもずいぶんと優しい書きぶりになっているような気がする。今with hateではなくてwith loveのモードか?

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village vanguardでエロ関係のものが全部売り場から撤去されてるという話をWebで見て、もし本当だったら世界がますます窮屈な場所になっていくなと思ってたんだけど、今日とある店舗を覗いてみたらエロいものは本当に、全部なくなってた。まあ最低だなと思った。具体的には、前には見かけたセックスの体位の本とかがなくなってた。

村上龍の "限りなく透明に近いブルー" はあるのが面白かった。村上春樹の "ノルウェイの森" もあった。アートに属する、小説という権威ある集合のうちに位置を占める作品として認知されているからだろうか? どちらの登場人物もセックスばかりしてるんだけどこれはPTAのオバサン的にはいいのだろうか。PTAのオバサンたちが問題にするセックスとはいったいどんなセックスなのでしょう。むしろPTAが変態の集まりではないのか。

このへんのこと、18禁とかのレイティング、あるいは子供の目につくところからポルノを締めだすゾーニングみたいなことについてきちんと考えたい。きっとそのへんの問題は社会学が考えていることだと思う。本を探して読みたい。むかつくぜ。都条例が関係している? しかしむかついているだけでは無力だ。なぜ間違っているのか論理的に主張できることを目指したい。

ムカつくことをムカつくということは、別にアーティストとか知識人とかの仕事じゃない。それは全ての人の仕事だということを忘れるべきじゃない。ムカつくときはムカつくと言わなければならない。village vanguardからエロが締め出されてもなんとも思わないけど?という人も、もちろんいると思う。もちろんそれはそれとして、その人の考え方として尊重する。ただ、僕はそういう人とはおそらく友達にはなれない。何か譲れない点で思考が食い違っている。

とはいえ学問を身につけているかどうか、それは問題じゃないのかも知れない。理論を知らなくても論理的にはうまく説明できなくても、これはおかしいと感じたらその直感に従って一人ひとりがNoと言う、その孤独な勇気が抵抗の拠点を作る。

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こういうの読んでるのも本当に面白い。自分にとってはニーチェ永劫回帰だろうとハーモニーの理論だろうと、報道写真だろうと朝起きて飲むコーヒーだろうと、全部同じだ。それらは結局のところ全部同じ場所へ繋がっているという実感がある。とりあえず片っ端から何でも食べて、感じてみるだけの話だ。あとはアウトプットを出力するメディアとして、自分がそのときどきで一番ふさわしいと思うものを使えばいいだけだ。小説でもいいし詩でもいい。映像でもいいし彫刻でもいい。音楽でもいいしパフォーマンスでもいい。しかもそれで上手く食えるようになれば、人間として自分の考える最高の生き方ができるような気がする。

別に誰かから崇拝されたいとか大儲けしたいとかまったく思わない。美術史に名前を刻みたいという欲望なんてさらさらない。ただ細々と食えるだけで本当に幸福になれるだろう。そしてたかがその程度のことが本当に難しい。自分のやりたいことをやってそれで食えるというのは本当に難しいことだ。この世界でただ自分一人食っていくだけでも並大抵のことじゃない。

人間というのはこのようなものだ。生まれて死ぬまで、40年か80年か、宇宙の尺度からすればそれは一瞬という言葉さえ過大なほどの恐ろしく短い時間だ、その点はこの世界に位置を持ち、一人前に自己意識を持って考えたり交わったりする。世界の中に位置を持って固有の体験を得、自分だけの解釈を吐き出す点が一瞬、白く明滅する。それが人が生きて死んだことだ。きっと人口学や地政学を勉強したうえで、必要な計算をして、自分でプログラムを書けば、その命の明滅を視覚化することができると思う。

プログラムといったら、まず計算機科学の初歩からきちんと始めてプログラミングが本当に分かるようになりたいと思っている。もう日本語に加えて英語が分かるだけでは全然足りないのだ。プログラミング言語が分かるのでなければならない。そしてこういうのも、チューリングとかニーチェとかゴッホの肩の上に立って始めてやることができている。だからそういう人たちに、かつてこの世界に一瞬明滅した特異点のようなgiantたちに、いくら感謝しても足りない。感謝し切ることはできない。

思うことをただ書いて切り貼りの編集もしないので散漫になった。