A Note

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はじめにポストモダンの差異のゲ−ムの話をしましたが、私たちの頃も若干似たような状況はありましたが、たとえば講談社現代思想シリ−ズなどを見てもですね、或いはインタ−ネットの読書ノ−トなどを眺めながら一層強く思うのですが、本当に思想というものが若い女の子の服飾品と同じになっていて、つまり完全に服飾趣味の世界になっているんですね。女の子が街へ出かける前に、ぎっしり詰まったワ−ドロ−ブの中からワンピ−スやらスカ−トやらをいっぱい引っ張り出して来て、ドレッサ−の前でとっかえひっかえして、アクセサリはどうしようバッグはどれにしようとあれこれ悩んだりするでしょう。あれと同じなんですね。いっぱい持っていればいいんです。服飾商品をいっぱい持っていて、お出かけする場所や相手に合わせて彼女らしいコ−ディネ−ションを表現できればそれでいいんですね。

これもある、あれもある、こんなのもある、これはどうだ、と得意気にちらちら見せるわけです。ちらちら見せるのが目的なんですね。持っているアイテムのバリュ−をちらちら見せて差異のゲ−ムを楽しむわけです。趣味のファッションですから舶来の新しい流行のものがいちばんいいんですね。ニュ−ヨ−ク・パリ・ミラノコレクションの最新モ−ドの直輸入が最もバリュ−が高いわけですよ。インタ−ネットの読書ノ−トを見るとですね、本当にちらちらしているでしょう。カタログ情報的に著者名と著書名がざぁ−っと羅列されてそれで文章全体がお終いですよね。五行ほどの文章のなかに著書名と著者名が十セットほど埋め込まれていて、その間を繋ぐ言葉はほとんど助詞と助動詞だけというような文章によく出くわしますよね。文章というより一覧表です。デ−タ件数は多いし、検索の精度もいいのですが、一件毎のデ−タの中身がないのです。レコ−ド長が短か過ぎて大事な中身の情報が落とされてしまっているのです。

高名な思想家は最高の修飾である。あの人たちは、時と場面に応じてデリダをチラ見せしたり、アガンベンをチラ見せしたりする。しかし自分の頭で何も考えていないのだ…。

この言葉は僕みたいな口だけ野郎の耳には痛すぎるな。グサグサ刺さってくる。それをきちんと刺さってる自覚があるならまだ望みはあるんで、見せびらかすために本を読んでるやつはそもそもその言葉が刺さる感受性を喪失してるんだということかもしれないけど、まあそんな甘えた解釈を許すことなく、自分自身を完全に切り離して、脅したり、殴りつけたりしながらやりたい。もちろんたまになら褒めてやってもいいと思う。それが理想だ。

それでいて他人には、自分を裁く基準はそのまま適用せずに、優しくあり続けること。それすなわち "自分に厳しく、他人に優しく" の困難さなり。自己自身への要求の水準が高いのは悪いことじゃない。自分がアウトプットを持ってくる。それを評価して、自分に、お前はもっと出来るはずだと言う。それは悪くない。しかしそういう人は他人を評価するときの基準まで厳しくなってしまいがちだ。もちろんその厳しさには優しさが含まれている。ハラスメントとしての権威の行使じゃない。それでもだ。僕はゲバラに関してそれを読んだことがある。

まあ頑張りたい。つまりほどほどにやりたい。深く絶望しつつ、簡単に絶望しない。"意志的に楽観すること" を自らに課したい。