A Note

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盲目の弁護士で人権擁護活動家・陳光誠さんは2006年8月、山東省の中級人民法院において、財物損壊罪と交通秩序撹乱(かくらん)罪で懲役4年3カ月の刑を言い渡されました。陳さんは、地方政府が地元の数千人の女性に対して堕胎と避妊手術を強制する違法な政策を行っているとして村人たちが山東省臨沂市当局を告発しようとしていることを援助していました。陳さんの年老いた母親は、判決の内容を聞いた直後、「この社会には、人間の心が残されていない」としか語れませんでした。

こういう人のことを知るたびに、自分の臆病さや弱さを感じて悲しくなる。この人も、別に他のたくさんの中国人みたいに、金儲けに邁進したっていいはずだ。弁護士になれるくらい賢い人だ。市場のゲームを勝ち残る可能性は十分に高いと思う。

今の中国で正義を貫こうとすると、マジで自分の身に危険が及ぶ場合がある。日本とは違う。比喩でなく本当に命がかかってくる。そんな場所で自分の信念を貫くのは、どれほど勇気のいることか。

いっぽう今の日本。悪いところは少なくないし、あちこちが機能不全を起こして腐っている。しかし言論の自由はある。つまりいくら激越な政府批判をしたところで、特高警察が飛んできて殴り殺されるわけじゃない。中国のように、恣意的に捏造された容疑を押し付けられて、刑務所へぶち込まれたりするわけじゃない。なのになぜ誰も言うべきことを言えないのか? 臆病すぎて屁が出る。こんなことではそのうちに屁の勢いで大気圏を離脱して夢の圏域へ向かうだろう。

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それでもやっぱり解離性同一性障害っていうのは、自分で実際に誰かの人格の交代するのを見るまではどうしても根元からは信じられないという気持ちが残る。だからといって解離性同一性障害の人を探して恋人を作ろうとするだろうか。まあそれでもいいような気がする。ちょっとしんどそうだ。しかし若いうちの苦労は買ってでもしろと言うではないか。最もしんどい関係は実は最も実り多い関係だということが言えないか。

狂ったような愛情表現というのがどんなものだか興味がある。刺すか刺されるかみたいな恋愛を年取ってからやるのはたぶんキツい。だから若いうちに済ませておく。そういう思考になる。若い時に済ませておいたほうがいいことは済ませておく。年寄りは年寄りらしく、若者は若者らしくせよという言葉にいくらかの真実を感じるようになってきた。

前にclubで一人でボケッと座っていた。これは女性がお酒をついでくれるクラブではなくて、大音量の濃密な波で満たされる、dance floorを持つ地下空間のことだ。まあ退屈だという顔つきで、だらんと座っていたのだった。そのうちに50cmくらい開けた左隣にアネゴと呼びたいような姉さんが座って、その左にもう一人女性が座った。二人が話し始めたので、僕はしばらく盗み聞きをしていた。自己弁護すると、どうしたって耳に入ってきた。10分くらい経った。こんな話になった。 "……だって殺すとかってなってもいやじゃん? だからね… まあ間違いっていうの? ってさ、わたしはもうそういうのは今はね……"

なんだか殺すとか殺さないとかいう話をしてるのを聞きつけた僕はまぶたを押し下げていた眠気が飛んで、一気に興味を惹かれた。もっと聞きたくなった。そこまでの流れで分かっていたのは、それがなんとなく不倫とか浮気の話題であるらしいということだった。男女がいる。もちろん男男でも、女女でもいい。ストレートもゲイもレズビアンも仲良くしようということだ。人類みな穴兄弟の思想がAnarchismだ。

ただ、一応ここでは古典的な異性愛を仮定する。男女がいて二人は付き合っている。つまり喧嘩したりセックスしたりする関係であるわけだ。興が乗ればワインを口移しで飲ませ合ったりもする、実に卑猥な連中だ。そこで女性が浮気をする。これが男にバレるかバレないかでその後の展開が違ってくる。そして僕はそのとき、左隣の姉さんが後者の場合、つまり浮気=間違いがバレた場合のことを話しているのではないかと推測していた。その女性は少々クレイジーなところのある恋人の男に浮気したのがバレて、殺す殺さないの話になっているわけだ。

僕はたかが恋愛で殺す殺さないになるのはあまりよくないと思っている。もっとクールにやるべきという考えだ。そして同時に、殺す殺さないにならない恋愛なんて恋愛ではないとも思っている。だからそこが矛盾しているのだが、矛盾を解消してしまうことなく自分の中でたくさん生かしておくことが大事だと思っている。矛盾しまくっているのがいいということだ。まあ人間は好き勝手に生きたらいいと思う。僕が姉さんたちの会話から得た教訓はそれだ。最後のところが論理的にぶっちぎれているような気がする。それでも気にせずこの文章をここで終える。

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こういうものが、まさに英語圏で言うところのhidden gemだと思う。勇気を持って、率直さという力で、この文章を書いてくれた人に感謝したい。この話を嘘くさいと思う人がいるかもしれない。実際下の方でそう書いている人もいる。なんてつまらない、貧しい人だろうと思う。この世界では最もありそうもないことさえ起こりうるという、はかりがたさへの畏怖を忘れている。それでは世界の豊かさに出会えない。"事実は小説より…"

話の真実性に疑いを持っても、その疑念はとりあえずカッコに入れて、棚上げにして読めばいい。何よりそうしたほうが面白い。ただこの人の場合には、関係が本当にキツい展開を辿ったみたいだ。簡単に面白がることはよくないとも思う。僕はこの文章の書き手が元気でやってくれていることを願いたい。

色々なことを考える。考えたいというより考えることを強いられる。例えばここでは自己同一性の問題が提起されている。私が同じ私であるとはどのようなことなのか。人格が交代したとき、それを同じ人と呼んでいいのか。あるいは人間の精神の構造。それがどうしたって気になる。いったいこの人間の精神というのはstructureを持つのか。持つとしたらそれはどんなものなのか。今一番先まで考えた人がおそらくラカンだと思う。ただ、まずはフロイトを読むことから始めたい。

これから先も人間は呪われたように、考え続けていくだろう。ラカンフロイトの乗り越えをはかったようにして、ラカンを乗り越えようとする知性が必ず出てくるだろう。そして誰かが必ず乗り越えるだろう。歴史だ。僕たちにはただ、徹底的に考えることしか残されていない。