A Note

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このarsvi.comというサイトをめぐってなんとなく読んでいた。ずいぶんしんどい学問があるなと思った。しんどくない学問があるわけないと言われたらその通りだけど、"生存学"、何かまた別のしんどさがあるような気がしたのだ。"生きて在ることはそれ自体でよい" と本当は言い切ってしまいたいけれども、ことはそう簡単ではないから、ともかく真面目に考えていこう、そういうことをしているのだと思った。

wrongful lifeという言葉があるのを初めて知った。例えば深刻な障害を負って生まれ、持続的な肉体的・精神的苦痛に苦しめられるような生を強いられる当人が、自分を産んだことそのものへの責任を問う訴訟を起こしてきたのだそうだ。私のこの人生(life)は間違っている(wrongful)という、どうしようもない確信に基づいて、その不条理への異議を申し立てる叫びを、誰かに叫ばずにはいられないということ。僕はやはりヨブ記を思い出した。ヨブの嘆きが現代では訴訟の形を取るのだ。神が死んだため、ヨブは裁判所の引き受けとなった。

軽々しく言えないし、言ってはいけないとも思うが、それでもあえて言うと、僕はその感じは理解できる気持ちがする。人間誰しもそれぞれがそれぞれの仕方でヨブであるだろう。これまで生きてきて、私は一度たりとも自分の境遇を嘆いたことはないと自信をもって言える人がどれだけいるだろうか。そうはいないだろう、たとえいてもそう多くはないだろうという確信がある。人間は弱くて愚かだ。苦しい時や不幸な時、嘆いたり恨んだり呪ったりするものだ。それはよくないとか悪いとか言うことに意味はない。そしてそうであってみれば、誰もそのような訴訟を起こす人を責める権利を持たないだろう。産まれてしまったものは仕方がないのだから観念して生きるしかありません、などと誰が言えるのか。

こんなことなら産んでくれないほうがよかったという絶望的な反実仮想の表明。訴訟となると誰かに責任を帰した上で、その対象を相手取って争う必要がある。しかし誰に対してだろうか。誰を相手取る。自分を産んだ親か、それとも、出生前診断によって生まれてくる子供の生が苦しいものになると十分に予想できたにも関わらず中絶を積極的に勧めなかった医師か。いずれにせよ訴えを申し立てるとすれば対象は、大方の場合にその二者のどちらかだ、あるいは両方だということになると思う。そしてwrongful lifeの訴訟を起こす当事者が本当に訴えたいのは、実はその二者のどちらでもないだろう。

なぜならその訴訟はそもそも運命それ自体に対する慨嘆であり、呪詛であるだろうからだ。あるいは境遇そのものと言ってもいい。ヨブの訴えは神を相手取ってなされた。しかし神なき時代、ヨブは誰に訴えればいいのか。訴えを起こすためには何者かを相手取らなければならないが、それを聞き届ける神はいない。仕方なく特定の個人が召喚される。それは親であったり、医師であったりする。そして本人の気持ちはそんなものとは違う。本当は被告人席に運命そのものを座らせて、その訴訟を戦いたいのだ。

人間の不幸には理由がない。恐ろしいほどに。ほとんど馬鹿げていると言っていいほどだ。absurdだと。なぜ自分に限ってこうなのかを誰も説明してくれないし、することができない。できることは一つしかない。ただ嘆くことだ。そして嘆くうちにも時間は過ぎる。それが一つの救済になりうる。時間が止まったままなら? 地獄だろう。しかし幸いにして時間は逆行したり、止まったりしない。だから終わりを期待することができる。そして終わるのは、必ずしも悲しいことではない。僕はそう思う。

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あと何年かのうちに、ある程度長い文章を、ミシェル・ウェルベックの小説 "素粒子" のために書きたいと思っている。それがいわゆる論文の形式になるのか、それとも口語で語りおろすようなものになるのか、自分でもまだ分からないのだけど、とにかくその小説について何かを書いてみたいと思っている。なぜか。一つには自分のため。もう一つには作品のためだ。僕は自分がこの小説にどうしようもなく影響を受けているようだ、なんだかそのようだというおぼろげな自覚を持つのだけど、しかしその毒がこの身体のどれだけ深くまで届いたのか、そして自分の中に保持する原初的な、そこから全ての言語が生まれてくるところの石版がどのように、この小説を読むという経験を通じて書き換えられ、更新されたのか、自分でもそれを測りかねているため、それをきちんと自分自身で把握しておきたいという動機がある。自己自身の更新履歴が、つまりログファイルが、頭の中に畳み込まれて実は残っているのだとしたら、何らかの方法を使い、そこへアクセスして、"ミシェル・ウェルベック素粒子" という概念でもって全文検索をかけて読み、調べてみたいということだ。もう一つの動機はありふれている。つまりこの作品に対する、作家に対する感謝を、自分なりに何らかの作品論を書くことで示したいというものだ。僕はウェルベックのこの小説は、他の数多くの現代小説からは際立って何かが違うという印象を持っている。