A Note

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別に日本語でもいいんだけど英語下手くそなので英語版にリンク。2番目のリンクはwikipediaの記事の一番下から飛んだものなんだけど、これはプラトンの洞窟を映像化したaward winningな粘土アニメなんだそうで。3分で見られる。ちょっと見てみよう。

…見てみた。基本的には分かりやすくていいと思うしこういうことなんだろうな。つまり人間というのは鎖に繋がれたまま洞窟の壁だけを見つめて一生を過ごす生き物であり、そして本物の世界であると感じ、認識しているものは実は、ただ後方で燃える炎が照らし、壁に映しだす影絵に過ぎず、聞こえている音は、洞窟の壁が跳ね返したエコーに過ぎない。しかしそのうちの一人が鎖を解かれ、洞窟の外へ出ることができた。その人はもちろん、光あふれる本当の世界を見ることになり、そして今までこれが世界だと考えていたのがただの影絵であったことも理解する。そして興奮して洞窟に帰り、仲間たちに伝える。君たちが見ているそれは本当の世界ではないよ、外に出てみろよ、僕の言っていることが分かるよ。しかし仲間はその言葉を決して理解しない。なぜならもうあまりにも影絵に慣らされているので、真実を知った者のほうが狂ったと考えるためである。

ただwikiを読むとプラトンの国家での議論からはアレンジしてるところがあるみたいだな。本当の世界、光ある世界を知った人が哀れな仲間たちのもとへ帰り、自分の知り得た真実を伝えようとするとき。wikiにあるところによるとソクラテスはこう言う。…外へ出た人が洞窟へ戻って哀れな仲間たちに真実を教えようとする、しかし彼の目はすでに光ある世界に慣れており、洞窟の暗闇に適応しないのだ、それを知った鎖に繋がれた者たちはどうだろう、なんだあいつの言うとおりに上に登っても目が潰れるだけだろう、単に有害だ、無駄なことだと考えないだろうか? そしてどうか、真実を知る者が力づくで鎖を解き、自分たちを無理やり洞窟の外へ連れだそうと試みた場合には、そんなやつは危険人物であるとみなして、彼を殺そうとしないだろうか?…

この喩え話は示唆に富む。とても教育的。素晴らしい。

まあマトリックスで言ったらネオのところにお前を洞窟から出してやろうかといってモーフィアスが来たんだな。あれはモーフィアスがネオを洞窟から引っ張り出したわけで、赤のピルと青のピルの選択肢を提示して、お前が選べといって、ネオ自身が、おれは洞窟を出ると言って自分で赤のピルを選び取った。ところが外に出てみたら真実を知ることはできたんだけど、生きるということに関してはそっちのほうが間違いなくキツい世界であるということを知った。"Welcome to the desert of the real." 四六時中機械のタコが攻めて来るし、食事も、ただ栄養的に十分であるだけの、三食ともまるでゲロみたいなまずい流動食を強いられる。

たしか仲間のネブカドネザル号の乗組員でスキンヘッドのやつで、エージェントスミスと交渉してマトリックスに帰りたいと願う裏切り者がいた。つまりあの男が考えていたのは、確かにこれが真実の世界なんだろうさ、でも真実がこんなクソなんだったらおれにそんなものは必要ないから、ふたたびマトリックスに繋いでくれよということだ。あれはプラトンの洞窟で言うと、一度外に出ては見たもののやっぱり現実は光が眩しくて目が痛いとか、鎖から解き放たれたもののこんどは自由の重荷に耐えられなくてキツイとかで、やっぱり鎖に繋いでくれといって自分から洞窟に帰るという行動と対応する。

自分自身はどうかというとこいつはおそらく洞窟からは出てると思う。そして出られたのは偶然だったと思う。これが面白いところで、もともとは鎖につながれてる連中を誰が洞窟の外に出すのか?ってことだよね。wikiから引用すると"What if someone forcibly dragged such a man upward, out of the cave:" つまり誰かが無理やり引きずり出すってことになってる。そしてきっとそれは哲学者の役割なんだろう。自分のことを考えると別に誰か他者の介在があって引きずりだされたり導かれたりして出たわけじゃなかったけどあえて言えば読んできた多種多様な本の書き手に引きずりだされた。きっとたぶんみんなと一緒に影絵の劇場を見てるのに馴染めなくて端っこの方で一人でいたらニーチェが来て、私と一緒に来なさい、はい、みたいな感じで後ろについて上の方に登ってったら外に出たということだろうな。

具体的なルートとしては、精神的に自分の内側に引きこもって引きこもりまくって、孤独を突き詰めた末に孤独の底を掘り抜く形で洞窟の外に出るということだから、まず寂しいのが嫌だとか自分の頭で考えたくないとかって人はそれはもう間違いなく一生洞窟の中なわけだし、またみんながみんな洞窟の外に出る必要もないと思う。上のビデオでもあるように洞窟の外に出た人間は洞窟の中ではただの変人か狂人扱いなので、そういうのが嫌だったら別に洞窟の中で影絵見ながらポテトチップス食べたりしててもいいよね。ただ自分は狂ってると思われようと変態だと思われようとそんなことはどうでもいいんで、洞窟の外で生きたいということ、つまり本物の世界を見たいし、本当のことを言いたいということだろうな。こんなとこか。

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この世界には、どうも色々なレベルで逆説的な構造が遍在しているということが実感として分かってきた。つまり深く絶望することがそのまま希望へ至る道であったりすること、あるいは、孤独の認識を推し進めることがそのまま他者へ開かれていく回路となること、などだ。他にもこれに類する関係があるかもしれないが、少なくとも上に述べた二つのことに関しては、どちらもまず長い暗闇を経由しなければ、おぼろげな光にさえ至ることができないという点において類似の構造を持っている。

例えるなら、これは自分一人で山肌へトンネルを掘り抜くという作業に似ている。つまり掘り進むうちは先が見えず、暗く、孤独で、辛い。しかし苦役に伴う報酬が用意されている。それはつまり、なんとか無事に掘り進み、向こう側の山肌を突き崩したときには、他の誰にも見ることのできない、自分一人だけが特権的にアクセスできる景色を獲得するということだ。もちろんこの比喩がプラトンの、洞窟のアレゴリーほど優れているとは思わないが。