A Note

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この世に生まれてくる前に、自分で生まれたいか、それとも生まれたくないのかを選択できるという考えは魅力的だと、認めないわけにはいかない。この世界が、生きてあることは無条件によいのだと自信を持って言い切れるような場所でない以上は、そのような空間へ、生まれてくる当の本人へまったく何の相談もなく放り出すことは少々配慮を欠く行為ではないかと思うからだ。生むほうは軽い気持ちだとしても、生まれさせられるほうとしてみれば事は小さくない。まさに誕生ということが人間にとって人生で最初の、そして最大の不条理であるといえる。誰に頼んだわけでもないのだが気がつくとなぜかここにいるという、理解することの容易でない事実から、すべての人の生は始まった。

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今 "あんたstructuralistかね?" と自分に問いたくなるくらい何を見てもstructure structureな時期だ。この小説のstructure、この人間関係のstructure、何に接してもそこにstructureを見て取ろうとする。あとはmodel。あれ、この現象を上手に説明するmodelがあるのかな? これは? 考える。つまりようやく、世界を概念化、抽象化、モデル化して理解することに目覚めた。そしてその楽しさと言ったらどうだろう。

一見何の繋がりもないように感じられる雑多な要素の集まりを観察し、考えることによって、普遍的に適用することの可能な理論、法則、モデルを導きだそうとする、この知的営為の積み重ねによって、どんな学問もその体系を作り上げてきた。別に誰に頼まれたわけでもないのになぜ人間が学問などということをやっているのか、ようやく分かったような気がする。それは抽象化して考えることそのものが楽しいからだ。理論や法則、モデルを組み立てることそのものが快感だからだ。

post structuralistになる前に、誰でもまずstructuralistになるはずだ。postという語の定義からいってそれは明らかだ。この世界の歴史がそうであったように、一人の人間の個人史がそれをなぞる。今自分がその段階にあり、こいつはstructuralist見習いだ。小説を読んでいるとする。するとその作品のstructureが気になる。考える手がかりを求める。つまり検索する。何を検索したらいいのか、なんとなく分かる。"narrative structure" とかあるいは "russian formalism" などと打って、Googleに聞いてみる。サイトを持ってきてくれる。ふーん、なるほどねえ、などとつぶやきながら読む。

僕にstructureをくれ。