A Note

^_^

絵が描ける 


追記:
とこれだけ書いて間違ってボタンを押してしまった。本当はあとに言葉を続けるつもりだった。これはこれで詩的かもしれないが、言いたかったのは、絵が描けるのはそもそも素敵だし、しかもただ素敵であるだけにとどまらず、その能力は時に言語を超えた強力なツールになりうる、それはBanksyを見れば分かる…、みたいなことだった。Banksyがもし壁に絵でなく詩を貼り付けるグラフィティ・ポエットだったとしたら相手にされていないだろう。

言葉で色々言うより今の自分の気持ちはこれだということが絵とかそれに類する表現で言えるとすればそれで一発だし、言語より早くてユニバーサルな喋り方でもある。フランス語を分からない人がフランス人にフランス語で何回 "花" と言われても分からないはずだがフランス人が花の絵を描いたらそれで分かる。それはだから絵を言語だと考えると、普通の一般的な日本語やドイツ語といった言語と比べてはるかに優越している部分だ。

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1 Brains in Vats 水槽に浮かぶ脳みそ


The Matrix presents a version of an old philosophical fable: the brain in a vat. A disembodied brain is floating in a vat, inside a scientist's laboratory.
マトリックスという映画が描いているのは、昔からある、哲学的な寓話のいちバージョンだといえる。その寓話とはつまり、どこかの科学者の研究室で、ただ脳みそだけが水槽にプカプカ浮かんでいるというものだ。


The scientist has arranged that the brain will be stimulated with the same sort of inputs that a normal embodied brain receives. To do this, the brain is connected to a giant computer simulation of a world.
そしてその科学者は、その脳みそが、普通にこの世界で暮らしている人たちが毎日感じているのと完全に同じ類のインプットを受けるように環境を整えている。というのもその脳みそは、まさにこの世界のまるごとそのものをシミュレート可能であるような超スゴイコンピューターに接続されているのだ。


The simulation determines which inputs the brain receives. When the brain produces outputs, these are fed back into the simulation. The internal state of the brain is just like that of a normal brain, despite the fact that it lacks a body. From the brain's point of view, things seem very much as they seem to you and me.
そのコンピューターの走らせる世界シミュレーションが脳みそにあれこれの刺激を与える。脳みそはそれに反応する。するとその反応がふたたび世界シミュレーションに返され、計算結果に反映される。だから脳みその内部的な環境は普通の僕たちの持っている脳みそと何も変わらない。ただその脳みそは体を持っていないということが違うだけだ。けっきょくその水槽の脳みそは、普通に僕たちがこうして生きて感じているのとまったく同じように感じて、生きているということになる..........

David J. Chalmers  "マトリックス存在論"。映画の中で主人公ネオはまさにbrain in a vatであった、と続いていく。マトリックスというのは映画のことで、僕はあの映画を単純に楽しんだ記憶がある。10年くらい前の公開だっただろうか。三部作だったか? 全部は見てないと思う。だから下に書くことは最初の作品についてだ。見た人には分かるように、あの作品はアクション映画として成功していただけでなく(あれほどの海老反り)、受け手を哲学的な随想に誘うような深みをも備えていた(赤のピルと青のピル)。

何も考えずに派手なSFXを見て楽しめる作りであるのと同時に、"自己" とか "存在" とか "現実" とか "虚構" とか、そういう重たくて巨大な、形而上のテーマについて考えたい人には好きなだけ考えさせておくだけの射程も持っていた。別に哲学者でなくてもそういう問題を考えて楽しむことがある。自分が自分であることの "自分性" とはいったい何なのか? この世界ではない別の世界というものはあるのか? あるいは、今まさに自分が恐ろしくリアルな夢のなかにいるのでないとどうして言えるのか? 哲学者はそういうことを考えるのが好き過ぎて仕事にしてしまった人たちだと思う。

まあ海老蔵さんのニュースも悪くはないと思う。それでもこういうことを考えるのも楽しいと思う。誰かがケンカした不倫したのニュース。悪くはないと思う。それでも僕はこの種の変てこな思考実験のエッセイを読んでいるほうがはるかに楽しいし、興奮する。ただちょっと困っていることもある。例えば、自分の頭があまり良くないんじゃないかという懸念だ。でもこれは受け入れて所与の条件で満足してやるしかない。あるいは、哲学は哲学でも、分析哲学とか論理式だらけでちょっとこれどうなってんだ状態。この論理式の哲学が本当にアリストテレスみたいな人たちの思索と接続できる哲学なのか? 不勉強な僕にはまだ不明だ(さすがに断絶してるか) それでも人間が果たしてどこまで考えられるかこの人たちは限界に挑戦しているのだと思っている。訳分かんないけどすごい連中がいるんだと思っている。本当にすごい人のことはたぶん訳分かんないということなんだ。それでもちょっとずつ勉強して…

僕もChalmersのこのエッセイを全部読めてない。全部読みたいと思う。ちょびっとずつ立ち止まって考えながら読むことになるだろう。それは遅い読書だが、遅くて楽しい読書だ。