A Note

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昨年の自殺者、5番目の多さ=504人増の3万2753人−9月以降は4カ月連続減


日本には自殺者が多すぎる。たとえ日本で内戦をやったとして年間に3万人も死ぬだろうか。"この国にはあらゆるものがあるが希望だけがない" という村上龍の言い方を思い出すが、これら個々の犠牲者たちが死んで悲しむ遺族はこの "32753人" という数の何倍もいるはずで、そしてその人たちも今後 "自分に何か出来ることがなかったのか" と何度も考えては苦しみ、生きていくために睡眠薬精神安定剤を必要とするようになるのだ。日本人に特有の精神構造がこの不名誉な数字の達成に果たしている役割があるかもしれない。日本人というのは他人と同じであることに安心し、そうでない場合に不安を感じる人たちだ。もちろんそうでない人もいるが少数だ。この国ではどこへ行ってもその場所が "空気" に支配されているのを感じることができる。僕の仕事はそういうものを道化的に破壊することだと思っているのだが、それはともかくとして、そういうわけで、日本の人たちにはどんなにみじめな境遇で孤独であろうとも一人で敢然と生きていくしかないのだという強さに欠けている部分があるのかもしれないと思う。アメリカや欧州の人たちに比べると、日本人というのは自分が社会から脱落してしまったのだと考えるときにダメージをより大きく受けるようにも思える。また村上龍になってしまうが(村上春樹は "ノルウェイの森" 以外読んだことがないのだ)"自殺よりはセックス" という感じでもっと適当に生きていった方がいいのではないだろうか。ほとんどの行為は終わった後には何も残らないが(逆に体から色んなものが出て行くことさえある)、しかし人生で2,3度くらいは人間の魂を救済するようなセックスさえあり得るかもしれないし、そう考えることは希望をもたらす。魂の救済…

"自殺よりはセックス" という言い方について、それを生きているような人たちの例を前に聞いた。ブラジルはカトリックの国だがカーニバルの国でもある。カーニバルというのは言うまでもなく、紛れもない祝祭だ。そのような祝祭空間においては日常の価値が転倒し、全ての欲望から抑制が外れる。するとどうなるかというと、みんな乱交するのだ。誰彼かまわず寝るというその感じはまさにセックスのお祭りだ。しかしカトリックの信者たちがそんなことをしてもいいのか? ところが問題はない。なぜなら、さんざん楽しんだ後で教会に行って懺悔するからだ。すると神は寛大にも不特定多数と交わったことの罪を許してくれる。やがてまた翌年のカーニバルが来る。するとまた乱交する。そしてまた懺悔する。すると神は許してくれる。それほど悪くないサイクルだと言える。僕の言いたいのは乱交すべしということではなくて、そんなでたらめさが日本人にも欲しいということだ。日本人がブラジル人ほどでたらめになったら、きっとバスも電車も予告無しに15分や30分は平気で遅れてくるようになるだろう。でも別にそれでいい。死ぬ訳じゃない。ブラジルというのは確かに汚職と貧困の極まったいびつな国だ。しかし僕はなんとなく憧れてしまうところがある。それともブラジルの太陽と陽気さというのはただのステレオタイプだろうか。降り積もった雪が強烈な日差しのことを考えさせる。