A Note

^_^

コンクリート・アイランド

コンクリート・アイランド


この本は僕が初めて読み通すことのできたJ.G.バラードの小説になった。バラードは最初SFの分野から書き始めたことは知っている。しかし初期の作品群を一つも読んだことはない。"コカイン・ナイト" や "スーパー・カンヌ" は読みかけたものの読み通せずそのままになっている。そのとき何をするにも根気のない人間だったのかもしれない。だとすれば良くないことだ。本当であればいつだって、1日に3時間しか眠らなくとも十分なくらい気を張り、例えばきちんとした本をしっかり最後まで精読するだとか、あるいはある一定の期間のうちに自ら定めた基準まで体脂肪率を下げるとか、何か明確な目標の達成に向けて自分を駆り立てていたいのに。

以下Spoiler Warningだよーん、と断った上で続けると、バラードはこの小説でテクノロジーが人間の精神に与えた根本的な変容について考えたかったのだろう。主人公の男は自分の事務所を持つ建築家で(何歳だったかな、たぶん40過ぎ)、車はジャガーに乗っている。つまりある程度の金が自由になる、社会的な地位のある男だ。彼には妻も子供もいるのだが、小児科の医師という別の女性もいて、その浮気相手の住みかで過ごした3日間の甘やかな記憶を引きずりながらも自分の本当の家へ向かうため車を走らせているところだ。しかし無事に家に着くことはできない。事故を起こしてしまうからだ。そして彼は車ごと吹っ飛び、陸の孤島のような場所へ取り残されてしまう。頭上を膨大な数の車が行き交うのだが決してその中の一台へアクセスすることが出来ないという場所だ。男は自分の命を救い社会生活を取り戻すために、そこからの脱出を試み、苦闘していくことになる。

この小説は限定された空間に閉じ込められた男がどのように振る舞うかバラードが頭の中で実験した結果を小説にしたものだ。この設定に僕は安部公房の "砂の女" を思い出した。あれも砂漠の巨大なアリ地獄という舞台へ男を配してそこで彼の身に起こる変容を観察していく小説だ。ただ、砂の底には女がいた。まさしく砂の底に砂の女がいるのだ。砂の底へ男と女が配され、その二人の関係性がどのように変化していくのかを読者は見ていくことになる。その女が従順で艶めかしい人間として書かれていたのを覚えている。男の持つ性的な攻撃性を誘発してしまいかねないような、きわめて自覚的に受動的な感じとでも言えばいいのか… そしてたとえ砂の底でも、生命を保つのに必要な条件さえ揃っており、そして女がいれば、男というのは何となく落ち着いてしまうものなのだろうか… 何となく順応して落ち着いてしまう人間の性質について書かれた小説だった。

バラードのこの小説でも女性は登場するのだが "砂の女" における女性ほど重要な地位を与えられてはいないし、与えられた性格も全く異なる。さて、"コンクリート・アイランド" においても、都市の死角へと予期せず幽閉された男は、何となく順応し、流れる時間から無視されるような孤島へ落ち着いてしまうのだろうか。どうだろう。読んでみなければ分からない。

(結びがあまりに適当すぎるがこれで失礼したい、21時になってしまったから… この適当さを改善することとしないこと…)

.