A Note

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“It's possible to love a human being if you don't know them too well ---- Charles Bukowski ”

"俺は女は盗まれてもウイスキーには手出しさせない"
"僕は女は盗まれてもウイスキーには手出しさせない"
"私は女は盗まれてもウイスキーには手出しさせない"

英語なら "I" で済み、迷う必要はない。しかし日本語において一人称の問題は深刻だ。特に男性にとって問題だ。女性ならばほとんどの場合 "私" か、それをひらがなで表記した "わたし" の二つから選択すると思う。しかし男性にとって一人称は "俺" "僕" "私" "おれ" いろいろあって、しかもそれぞれの言葉から受ける印象が全く異なるからやっかいだ。上に掲げられた例文を見ても、三つとも全く感じの違うものとなっていることに気がつかれただろう。日常会話で "俺" という一人称を使っている男性は大勢いると思うのだが、しかしこれをそのまま書き言葉にしてみると、俺という一人称の語調はかなり強いものだということに気がつく。"俺" というのは人間の暗部を見て歩く孤独な探偵のような一人称だ。では "私" はどうかというとちょっと堅苦しすぎる。またそれを無理なく使うためには自分はまだ若すぎる。だからその間をとって "僕" という一人称を暫定的に採用しているという人が多いのではないだろうか。しかしその場合にも彼は "僕" という一人称に完全に満足しているというわけではない。なぜなら "僕" というとまるで自分がどこかのボッチャンになったような気がして恥ずかしいからだ。

英語圏の男性が "I" と言うときその一文字が "俺" も "僕" も "私" も兼ねている。一方の日本語はその使い手に多様な語の選択を許すという点で豊かな言語だが、しかし "I" ではない何かの一人称を必ず選択しなければならないという点において面倒くさく、不自由だ。ただ、日本語というのは主語の省略さえ許す言語だから(このような言語は世界的に見て特異ではないだろうか)本当に面倒くさければ一人称を無くすということができる。主語を省いて "女は盗まれてもウイスキーには手出しさせない" とだけ言う。依然として "誰が?" と問う余地は残る。しかし一般的には主語を省略したそのような言明はまず本人の意志を示したものとして理解される。そしてこのように主語無しで話すことができるという日本語の大きな特徴が、全然個人主義の育たないこの国の状況(僕にとっては惨状)にも貢献していると言えないか。

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