A Note

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個人的に誰かに日本語へ翻訳して欲しい作家が二人います。英語に訳されてはいますからそれを買って読めばいいのですが、日本語のように英語を読めるほどの能力がまだありません。以下の二人です。


Roberto Bolano(このクネクネがついたエヌはどうやって変換するのでしょう)は詩人・小説家ですがもうこの世にはいません。彼の "通話" という短編集は既に日本語へ訳されてどこかから出ていますがまだそれだけです。彼は若い頃にはヘロインも少々嗜んでいたということですが、以前目にしたある記事によればそれは本人が作り上げたカラフルな過去に属するのだと、つまり作り話であるようだということです。そしてそれはきっとどちらでもいいことなのでしょう。過去を自分の好きなように修飾してみたくなることは誰にでもあります。死後もその評価は高まるばかりです。英語圏では遺作となった "2666" という小説が凄いという評判のようです。

もう一人Pedro Juan Gutierrez(このチョビのついたイーはどのように変換するのでしょう)ですが彼は英語圏ではCubaのdirty realistと呼ばれているようです。Dirty realismというのは文学における一つの潮流に付けられた名前ですが、その流れに属すると言われているのはwikipediaを参照すると一般にCharles Bukowski, Raymond Carver, そのあたりの書き手であるようです。Carverを読んだことがありませんが僕はBukowskiはかなり好きな作家ですし、たしかに彼の書き方はdirtyだしrealismであるとしっくりきます。dirtyという形容を直訳すると "汚い" となり、realismを直訳すると "自然主義" となります。二つ繋げて "汚い自然主義" となりますが、要はこの世界の汚辱も醜悪さも、猥褻さも情けなさも、露悪的になることさえ恐れず一切のためらいなしに直截に描写された小説のことでしょう。その意味ではセリーヌなどは間違いなくdirty realismの始祖だと言えると思いますし、Bukowsukiにとってはセリーヌは文学的な父親のようなものだと思いますが、wikipediaのdirty realismの項にセリーヌの名前はありません。彼はたぶんdirty realismなどという文学の支流には属さずに、文学史に名前を刻んだ偉大な作家としてその本流にを持っているのでしょう。

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一つ気がついたことがありました。やっぱりコメント欄も開けずに "村はずれに一人で住む頭のおかしい予言者スタイル" でブツブツしゃべっていても正直に言ってつまらないです。厳しい孤独のうちに自らを持する予言者もさすがに聴衆を求めて村の方へ降りてきます。"氏ね" とか "女性差別主義者" などと非難されることでさえも何も言われないよりはましです。例えそれが下らない非難であっても無反応であるよりはいい(それもどうでしょうか) ただ、このアカウントでは僕は過去に死ぬほど恥ずかしいことばかり書いていたような気もしますから、ここの設定を突然publicにするということは保身という観点から言っても避けるべきだと思いました。やはりはてなの中に別のアカウントを取得して、そしてそちらで村の皆さん方と気の利いた言葉で罵りあったり、議論したり、ときには傷を舐め合ったり、燃料投下したり、そういったことをしてみたいなと僕はツンデレな思いで夢見ているところです。そちらの設定はtrackbackもコメントも最初からpublicにして始めたいと思いますし、何ヶ月かのうちには、はてブで常に1000userにブックマークさせるような記事を書けるようになることが目標です。決してタブーを設けることのない笑いと切れ味の良い論理によって村の秩序を攪乱する道化というのが僕の役割であるような気がしていますが、そんな役目が務まるでしょうか。それなりの能力が要りそうです。いつからやるつもりなのか自分でも分かりませんが、やるとしたらそのときには頑張りたいと思います。

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