A Note

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何かで腹を立てているときに少し露悪的になりすぎるかもしれない。それはあまりいい癖ではないからできれば直したい。駄々をこねて母親に甘えている子供とどれほど違うだろうか。つまり幼稚なのだ。僕が2歳のとき、母親と祖母と一緒に店を歩いていた。僕は "ボ!" と言った。すると祖母は僕にボールを買ってくれた。ボールが好きだったのだ。そしてお分かりのように、ボールのことを "ボ!" と呼んでいた。ボールを見るたびにしょっちゅう "ボ!" と言った。そのたびに祖母はボールを買ってくれるのだった。そんな話を前に聞いた。しかしそう、昔話をしている場合だろうか。そうではない。これからのことだ。この腹をいったいどうするのか。そしてもっと大きな問題。つまり人生をどうするのか。"人生"という問題は"腹"という問題をその中に含む。一体何をどうするのか、何が欲しいのか、分かっていない。村上龍が言うように、何が欲しいのか分からない人がそれを手に入れることはできない。僕はまず自分が何を欲しがっているのかを知らなければならない。少なくとも今それは "ボ!" ではない。もっと別の何かだ。しかしそれが何なのか分かっていない。

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ダイモス 火星に着いたばかりの人間は希望にみちていた。希望があった。今のこの火星に比べれば。
フォボス 希望は、絶望と同じくらい、頭の中の絵空事からできているものよ。
ダイモス どういうこと?
フォボス あたしは、今の火星にだって絶望しない。だって絶望は人間が頭の中で作り出した絵空事だから。でもね、同じくらい希望も持たない。希望も人間が頭の中で作り出した絵空事だから。


「新潮 二月号」収録、野田秀樹「パイパー」より

場所が火星でも地球でもいいと思う。この世界の多くの局面において残念ながら希望が幻想であることは多いのかもしれない。しかしそれと同じくらい絶望だって幻想なのだとしたら、そのこと自体が希望であるようにも思えてくる。"絶望してはならない" という命令には実利的な意味があると思う。探し続けることをやめなければいつか光が見えてくるかもしれないし、何かしていることで気も紛れる。しかしそのいつか光が見えてくるかもしれないと思っているところがまだ全然甘いし、断念が足りないと思う。ヨブの絶望に比べたら僕のそれなんか屁だ。ヨブ記か…

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広島少年院の教官4人を逮捕 収容少年らに暴行容疑 - 社会
http://www.asahi.com/national/update/0609/OSK200906090099.html

地検によると、松本容疑者は08年11月23日、少年院の浴室で当時17歳の少年を平手で殴り、強制して紙おむつをはかせた疑い▽菅原容疑者は08年12月7日、少年院の寮内で当時17歳の少年の顔や首を殴るなどし、さらに失禁させた疑い▽田原容疑者は(…)

"人はその制服通りの人間になる" という言葉がある。全くひどい事件だと思うし、この教官たちには憤りを感じる。ただ、この教官たちが特異的*1にひどいサディストなのであり、これは一握りの異常者の起こした事件なのだと短絡してしまっては事の本質を見誤ると思う。僕はあらゆる人間がある程度のサディズム ---- と言ってもいいし嗜虐的な性格と言ってもいい ---- を内在させていると思う。つまり動物なり人なり、生きている何かをいじめて苦痛を与えることにより対象が苦しむ様を見て楽しむという悪魔的な性質は、実はどんな "いい人" の中にもきちんと備わっているものだと僕は思うのだが、そのような恐ろしい心は普段は理性に押し込められて出てくることがない。しかしひとたび条件が揃えば、誰もが自らの内に飼っているそのような悪魔は目を覚まし活動を始める。

この事件のみならず一般に "警察官による市民への暴行" またはそれに類する事件のことを知るたび思い出すのは "es" という邦題で公開された映画*2のことだ。この映画はかつてスタンフォード大学で実際に行われた大規模な心理学の実験をモチーフとして制作されたもので、その実験の内容とはたしか、一般の市民から合計で十数人程度の応募者を募り、その人たちの役割を囚人役と看守役とに分け、しばらく刑務所を模して作られた大規模な実験施設でその役割に付随する義務や仕事をこなしつつ暮らしてもらい、その状況下で日々を過ごしていく上で人々に起こってくる精神的・心理的な変調を観察する、大まかにいってそんなものだったと思う。普段はそれぞれの暮らしを生きていた市民が一定の期間を囚人役と看守役とに分かれて生活するという、一言で言えばとても大がかりなごっこ遊びとも呼べそうな実験だが、この実験が何事もなく終わったのかというとそうではなく、最終的には恐ろしい事態を引き起こすに至った。その実話に基づいて "es" という映画が撮られた。囚人役と看守役、管理する側とされる側、服従させる側と服従する側、当初は理性的なやりとりがなされていたはずの二つのグループの片方が統制を失って暴走を始めたのだ。さて、暴走を始めたのはどちらの側だったのか。

今回広島少年院で起きた暴行事件を知ってその映画のことを思い出した。


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*1:追記:これはわざわざ難しい言葉を使うこともなかった。というのは僕はここで特異的という言葉を誤用しているみたいだからだ。主に医学の分野で使われる術語であるらしい。かっこつけずに普通に、特別という言葉を使えばそれで十分だったのだ。

*2:英題は"Das Experiment"