A Note

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フェリーニというより、ゴダールというよりは、おそらく僕はパゾリーニになりたいと熱望しているのだ。少なくとも、その可能性がないか? だとしたら恐ろしいことで、なんと言っても彼は死に方がひどいのだ。そうでなくても、そんな人生を生きるためには、ほとんど常軌を逸した恐るべきエネルギーが必要 で、氷のように冷静になれるのと同時に、火のように激しく怒ることができなくてはならない。目的のためには手段を選ばない狡猾さを持ちながら、無限に慈悲深い聖人になることができなくてはならない。つまり一言で言えば、強く、優しくなくてはならない。

僕は人生を彫刻の比喩で考えることに惹かれるのです。その人が息を引き取ったその瞬間に完成を見る彫刻作品が人生なのだと考えるのに惹かれるのです。その捉え方で人生を眺めてみると、なんとなくやり過ごしてしまいがちな日々の営みが、実は途方もなく大切なことであるように思えてくる。なぜなら、食事すること、誰かと会話すること、愛し合うこと、散歩したり、本を読んだり、映画を見たり、音楽を聴いたりして何かを感じること、そんな日常の些事でさえもが、四角い石柱である原石から何かを削りだすためのノミの一打ちになっているわけだからです。そんな緊張感を常に持して日々を過ごしていけたら素晴らしいのではないでしょうか。

この醜悪な世界では誰もが、自分ひとりのためのほんの些細な居場所を手に入れるだけで必死だ。それぞれがそれぞれの場所で、信じるもののために闘うしかないんだ。


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ナショナルジオグラフィック NATIONAL GEOGRAPHIC.JP
http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/wallpaper/2007.shtml


雑誌に掲載されなかった写真が一月につき数枚ずつ選択されて、wallpaperとして公開されている。写真家は一度の撮影で膨大な量を撮って帰ってくるのだと思うけれども、残念ながら、そのすべてを掲載するだけの紙面を紙の媒体が持っているわけではない。その貴重な画像をしまいこんでしまわずに、こんな風にWebで公開することができるのは素晴らしいなと思って見ていた。

どの写真ももちろん申し分なく綺麗で、こういうものを見ていると、どうやら、"美しさ" というのは人間の手を離れたところにあるものではないのか? 人間が何をしたのかというと、これらの被写体を探して撮ってきたのであって、被写体そのものを生み出したわけではない。生み出した主体は総体としての自然だろう。人間はすぐに思い上がってしまうけれども、この動物もまた自然の産物に過ぎない。

その探して撮ってくる行程自体が想像を絶して大変なのだと思うし、写真家たちの素晴らしい仕事のおかげで私たちはこれらの画像をこうして目にすることができる。大いに感謝したいし、写真家の苦労を想像するれども、しかし人間にはやはり限界があって、私たちにはこれらのものたちを撮ること(take)はできても、決してこれらのものたちを生み出すこと(make)はできないのだと思い直しておくことは、大切なことではないのか?

というよりも… あまりにも美しいもので、そもそも自然というのはこれほどまでに美しい必要があるのだろうか? これらを"神の御技" と言わずして何と言うのだろうか? そう言いたくもなるのだけれども、ここでところが僕は人格神を持たないので、こんな風に自然の無欠の美しさにふれて宗教的な感情が沸き起こるようなときには、神についてのスピノザの美しい思想のことを一緒に思い出しているようだ。世の中に数多ある形象や、構造の、素晴らしい調和の中にのみ姿を現わす美があって、そこに神が宿っているのではなくて、それは神がお創りになったものでもなくて、それ自体がすでに神なのだ?


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上から三番目の「生まれたて」が可愛い。
http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/wallpaper/0510/wallpaper.shtml


下から二番目の「お父さん冷たいよ」が可愛い。
http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/wallpaper/0509/wallpaper.shtml


上から一番目の「また君がきたの?」と、上から三番目の「遠くを見据えて」が可愛い。
http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/wallpaper/0501/wallpaper.shtml


上から二番目、三番目、下から一番目の、このホッキョクギツネのように孤独に生きられる人がいるだろうか。
http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/wallpaper/0410/wallpaper.shtml



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Nachtweyはそれが写真家として最も辛いことだと言っていたけれども、写真家というのは、自分が現実からtakeすることしかできないということにいつも悩んでいる人たちではないのか。またそのような恐れを持たない人には、やはり写真家などと名乗って欲しくはないとも思うのだが、たとえば飢えた子供を撮って確かに自分は賞を貰うかもしれないが、しかしあの子は今ごろ死んでしまっているかもしれない。死にかけた兵士を撮って確かに自分は賞を貰うかもしれないが、しかしあの兵士は今ごろ死んでしまっているかもしれない? その場面が悲劇的で、美しくあればあるほど自分は得をしてしまうが、そんなところばかりを選んで見に行っているというのは、いったいどうなのか? それは人間としては?


"いや、あなたの言いたいことは分かるんだ。報道写真家というのは、皆そのことを一生苦しむものだ。しかし私は伝えるために撮っているんだ。誰かがそのことを撮りに行かなければならないのなら、私がそれをすることはできるなと思ったんだよ。"


----  そんなことを言うけれども、しかしあなたは賞が欲しいだけなのではないですか? 名誉が欲しいだけなのではないのですか? つまり、人の不幸を飯の種にして、あわよくば自分が成りあがろうとしているだけなのでは?


"…何を言っているんだ。そんなことはないよ。私は今までに個人的な野心を実現するために他人を利用したことはないよ。"


----  いえ、それは嘘ですよ。知っているはずです。


"………。"




(彼は何も答えなくなってしまった。)


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"「軽蔑」の冒頭に映画会社の連中がけちをつけたんだ。そのときゴダールは、尻が欲しいなら、だったらくれてやると言って、あのシークエンス、男と女が裸でベッドにいていかにもハリウッド風のメロドラマを演じる場面を追加したんだ。「私あなたの腕が好き、私あなたの耳が好き、私あなたのお腹が好き、私あなたの金玉が好き、私あなたの…」 結局すべてがゴダール風に過剰になって、怖くなって、わけが分からなくなる"

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asahi.com:猛暑で火災報知機誤作動が相次ぐ 札幌 - 社会
http://www.asahi.com/national/update/0813/TKY200708130092.html


「…いや、実際ね、今日は本当に暑くて I'm on fire だったんだよ。最近ここまで暑い日がなかったから張り切って外を歩いたんだ。そしたらなんとね、すごい量の汗をかいたんだよ。ここが新宿のサウナでないと分かるまでに15分かかったものね。だからやっぱり、大変な事態だったんだよ。

それになんだか嫌な予感がするな。というのはね、この事件にはアルカイダとの関連はないかな? たぶん考えすぎだろうね? 被害妄想的になっているかもしれないね?  …アルカイダのみんなは今ごろ元気でお祈りしてるかな?

東京や福岡や沖縄のほうでは、こういうことは、火災報知器の誤作動なんかは大丈夫なのかな? ススキノにはしょっちゅう誤作動している人がいるけど、そういうのは東京や福岡や沖縄のほうでは大丈夫なのかな? アルカイダとの関連は大丈夫なのかな?


ところで、北海道のスキー場と沖縄のビーチを交換できたら素晴らしいと思わないか? 


最近はそういうことばかり考えてるんだね、きっと」



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CNN.co.jp : 仏16歳少年がハリポタ最終巻を翻訳、ネット公開し拘束 - エンタテインメント
http://www.cnn.co.jp/showbiz/CNN200708090021.html


「ところで、あるおばさんで、ハリーポッターのことを"ハーリーポンタ" と覚えていた人がいたんだよ。"ハーリーポンタ" だよ? 主人公の男の子が、ジェーン・フォンダが犬を産んだらみたいな名前になっちゃってるんだよ。どうしたらそんなに面白く聞き間違えられるんだ? 信じようと信じまいと、これは本当なんだ。」


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DVDで「ダーウィンの悪夢」を見た。冒頭の数十秒を過ぎた時点でこれは詩人の映像だと感じたので、以降はこの映画をドキュメンタリーであるよりも、むしろ、地上の地獄を題材に扱った映像詩であるものとして見た。

たぶんこの映画に関しては、それが"正しい" 見方ではないかな。というのは、監督自身が、この映画は私の魂を撮ったものですと述べている。僕はこの言葉は、"この映画は私の詩を撮ったものです" と解釈する。

冒頭のシーン、紫の朝焼けを切り裂いて、巨大なイリューシンがカメラ後方に位置する空港へ着陸するためにこちらへ向けて飛来してくるシーンはとても美しくて、何度か繰り返して見たいとも思えた。

あえて例えるとすれば"悪の華" だろうな。この映画は。

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"取り返しはつかない" というのは当たり前の話で、例えば、水準の低い男をわざわざ選んで結婚してしまった女性、言葉は悪いけれども、カスみたいな旦那 ---- 例を挙げるとすれば、無能な珍太郎のような男か ---- を引き当ててしまった女性は、最悪の場合、人生がそこでほとんど終了してしまうこともあるだろう。だからまたしても余計なお世話を焼くとすれば、下らない男は敬して遠ざけるべきではないのか?


珍太郎は単に下劣なポピュリストであるとはいえ、見ての通り、大いに出世したことだけは確かだから、妻はそれほど間違った男を選んだわけではなかったということになる(もちろん珍太郎自身がかなり間違った人間であることに変わりないのだが)


あと、男の顔しか見えていない女性は、大丈夫なのか? (何が? 魂が。見る目が。というのはつまり、中身のよく詰まったタラバガニを選んだほうがいいんだよ。…あ、ほら、かなり北海道らしいメタファーが出てきただろ? この土地を心から愛しているんだ。) 


いくらハンサムでも、結婚してからも女癖の悪さが直らないようなバカを選ぶと苦労するだろう。そんなことは承知の右でサルトルボーヴォワールみたいに契約結婚するならそれはそれでいいんだ。


外面だけ体裁が良い食べ物を実際に口にしてみると、非常に不味かったという経験がなかったのか? (いや、あった) でも若い頃は誰でも人間が浅くて、相手の心を見るみたいな技術を持たない。愛によって盲目にされてしまうのだが、ところがそれは愛なのだろうか?


夏の朝から愛だの何だの…









なんだか村上龍のエッセイみたいになってしまった。お元気で。  "見つかった。何が? 永遠が。海と溶け合う太陽が"




今日もそんな天気になるでしょう。



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