薔薇の花砕かれて別れ
残り香 夢の跡 亡骸
愛が何か指先に分かる
敵味方問わず死ねと言う
放っておけば勝手に死ぬ
造形芸術に関する才能はまるでなかったが
柄にもなく繊細優美なスタイルの詩を作り
読ませに来ることがあった。
ところで菊地成孔氏の日記を最近見つけて、面白いと思って読ませていただいている。メスのように論理的でありながら、洒落を解し、ふざけておられて、洒落ている。その優美な仮面の裏側にはもちろんのこと、厳格な自己規律を隠しているはずなのだけれども、そんなことは少しも覗かせずに歌うことの出来る愛の道化師だと思いました。音楽を聴いてみたいと思った(ということはまだnot yetですか、といわれると、去年のRSRで、素敵なUA嬢とご一緒のステージを、拝見させていただいたのでしたが、)
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たとえば、おれの師匠はニーチェ、ランボー、親鸞、TBHだ、と言える歌い手が何処からか出て来ないか。面白いのではないか。
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「でもそんなの関係ねえ でもそんなの関係ねえ」
お前は誰だと言いたいのだ。
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「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」と岡本太郎が力強く説きかけるCMがあるとしたら、一度見てみたいものだ。
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TBHは単純に格好いいので、僕は好きだな。それほどのものかな? と思う人はもちろん大勢いるだろうけれども、僕はそれほどのものがこの街から生まれたな、と思っているわけだ。それに今この国で、野武士の佇まいで、捨て身の言葉を吐くことの出来る人って、あまりいないでしょう?
僕は彼らの音・声に本当にアジられるし、聞き続けるでしょう。もちろん、彼らにはアジテーションの意識などはさらさらないわけですけれども。
血を吐くようなライミング、と言いたい衝動にも駆られます。
というか、本当に真率な言葉で語ろうとすれば、それは血を吐くようなものにならざるを得ないということなのだ?
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どんな言葉にも、深遠な重たい意味を読み込むことが出来る。たとえば、「そこに山があるから」と誰が言ったか知らない。Googleすれば誰かの人名が手に入るのだろうけれども、何かそうしたくない気持ちが今はそうさせないので、そうしないでおきたい。調べることがこれほどまでに簡単になってしまったことへの懐疑を忘れてはどうも危ないと思えるのが本当のところかどうか知らないが。
さて、僕が名前を知りたがらないその人は果たして、私たちがこの言葉へついつい読み込んでしまいがちな、何か深遠な意味を与えたうえでその言葉を口にしたのだろうか。どうもそうは思えない、という疑わしい気持ちが強まってきている、優しげな夕刻ダヨーン。
その人は、本当はほとんど何も考えずにその言葉を口にしていたのではないかという、私たちにとっては最も恐ろしい可能性すら想定することができる。誰かが呆けたままで、"なぜ"ばかり問うジャーナリストにほとほとうんざりしてしまって「ま、そこに山があるんで」くらいのことは言えると思えるのだ。そのとき汗まみれで、さっさと家に帰ってシャワーを浴びたいんだ、え、山があるからだ、と考えていたかもしれない。その程度の意気込みさえあれば言える言葉だろうと思う。そしてもしそうならばすごく面白いことだし、喜劇も悲劇もそこから生まれる可能性がある。
深遠な言葉ほど、まるで呆けたような言葉なのかもしれない。とにかく、何かが起こるのは良いことだ。生まれる。死ぬ。それは一瞬だ。しかし永遠にも近いのだ。やがてみんな鎮まり、静かになる。決して終わらないように思えることさえ終わるものだし、終わってきたものではないのか?
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誰かに自信があるように見えるのは、その人に自信があるからだ ---- これは常に間違わない言い方だろうか? おそらく、そうではないと思う。
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