A Note

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くま吉ワールド


身分を騙ることの愉悦をくま吉の中では存分に感じられそうだ。67歳のハゲ散らかした太鼓腹のお父さんだって、くま吉の中ではもはやくま吉となり、女子供から強烈に愛玩される可能性がある。着ぐるみの本質は全身を覆う仮面だ。仮面は面白い。仮面はそれ自体が人格であり公然の隠れ家だ。安部公房は「他人の顔」の中でその認識を追求していた。読み終えてない…。安部公房は世界基準の天才だと思う。「砂の女」を読んだ時、日本にこんな小説を書ける人がいたのかと思って驚いた、砂の世界の確かな手触りや、アリ地獄の底に住まう女の艶かしさは今にも触れることさえできそうだ。彼の出身が東大医学部だっけ… 彼がもしどこかの段階で心変わりして医師になり筆を折っていれば、世界は安部公房の作品を持てなかったわけだ。それではくま吉の冷たい無表情も…(・(ェ)・)

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穢れたから白紙撤回とか言ってる人


穢れって概念自体が人類学や民俗学における重要なテーマだと思うけど。今でも十分に生きている感受性だと思うし、頭の良し悪しの問題とも違うかな。例えば道端へ吐かれたガムを踏んだあとに、それを舌打ちしながらこそぎ落とした後でも変わらず残る不快感や汚された感覚が穢れだろう。本人のそのネガティブな思いは仮に靴自体にガムの分子一つさえも付着しない完璧な清掃のあとでも変わらない。つまりその不浄なものに侵されたあとに残るいやな悪い感覚は、モノや事象自体の客観的な状態とは関係ない。

エンブレムについては最初からどうでもいいなー。これは斜に構えているわけじゃなくてただずっと興味が持てなかったし今もそうだ。オリンピックにも。他人に石を投げたり槍で突いたりしなければならないほど、自分の人生に不満でも悲しくもないから佐野さんをつまようじでチクチクしてストレスのはけ口にしない。人だかりに囲まれた罪人がどれだけ悪辣であろうと石を投げる側として僕は参加したくないしこれはずっと思うことだ。自分の意志を集団に同一化して溶かし込んでいくなし崩しの集団主義は日本人の精神性とさえ言える振る舞いだが、僕はそれが好きではないし、違うやり方を選ぶ。

以上述べたうえで言うとこれまでの経緯また報道を見るに佐野さんそして選考委員会の手法に問題なしとはとても思えない。でもだからといって、彼をリンチしようと思わないし殴ろうと思わない。潮流の逆が好きなだけだ。自己規定が罪人だからだ。これは法的な前科あるなしともちろん関係ない。

これから顔でも洗ってタイ料理のビュッフェランチを摂りに行く計画だ… \(・(ェ)・)/くま吉