A Note

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秋になるとこの小さなかわいい赤い実を付ける木がナナカマドで…、と北海道の人にわざわざ説明する必要はない。なぜならこの木はここではきわめてポピュラーで、誰も知らない人はいないからだ。

ところがこれは本州では、特に東北以南ではそれほど広く知られた種類の樹木ではないということを最近知った。

あとこの「本州」という言葉自体を「本州」の人はあまり使わないらしいね。北海道では乳離れした瞬間から誰でもホンシューホンシューと言って育つ言葉なんだけど。

つまり地理的に、物理的に中央*1から離れているから、思考の枠組みの上で本と枝、中心と周縁という構造が作られていて意識せずとも自らを中央に対置して思考している。

北海道という土地そのものがまだ新しく、それを守らなければならないほどの歴史を重ねていないため、伝統や因習といった時にネガティブにも働く力から自由な、野蛮な身振りが可能になるかもしれず、それはこの日本最大の島*2が内包する良い潜在性として捉えられる。

ナナカマドの実だけど赤くて小さいため甘くておいしいのかと僕は小さな頃思っていたが、おいしくはないようだ。たまに鳥がつついているのを見るけど人間の味覚を楽しませるために用意されたものではないようだ。しかしこれは類推であって、つまり「ナナカマドの実は人間の食べ物ではない」という獏とした雰囲気を感じているという意味である。

究極的には、それが美味しいか美味しくないかの証明はそれを食べてみることのうちにしかない、というのは確かなことだ。何かを直接に経験することに含まれる情報の豊かさは文献や伝聞から得られるものとはまったく違う。直接経験と間接経験の違いというのはつまり、中学のときに好きな女の子の飲み残したジュースを盗んで飲むことがその子と実際にキスすることとは恐ろしく違うようなものである。と書いてみて自分で分かったが写真はたかだか間接キスのようなものでしかないわけだ。

それがいかによく撮られたものであろうと、あるシーンが写真に定着されたものは実際に見る経験に比して圧倒的に貧しい。例えば上の4つの写真にはこれを撮っていたときに肌へ感じた早朝の風の冷たさや空気の匂い、どこからか聞こえてきたカラスの羽ばたく音などが含まれていない。

*1:それが皇居でも東京タワーでも渋谷のスクランブル交差点の真ん中でもいい

*2:と書いたがそれは北海道ではなくて本州だということが分かったが僕はそんなのはどうでもいいと思う