A Note

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年齢を重ねるにつれて誰でも若い頃に思い浮かべていた自分の全体像には手が届かないという幻滅を味わうことになる。それは別に悪いことではないだろう。僕は今まだ若いのにこう書いているがこれはいいことかどうかわからない。知恵よりもむしろ後先考えない愚かさに憧れるからだ。

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僕は書くことも撮ることも好きだ。もしかしたらそれらの行為のうちに情熱を持っているとさえ形容できるかもしれない。ただそれで食べていけるか食べていきたいかというとそれはまた別の問題だという留保をさし挟まないわけに行かない。

森山大道とかどうやって食ってきたのかわからない。金がほしいなら決して写真家になるべきでないことは明らかだ。普通に言ってパトロンがいたりあるいは献身的な看護師の妻がいたりする可能性が高い。芸術的な才能に憧れるが金しか持たない人と金の必要な芸術家とはいい組み合わせだ。

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六本木界隈の少し綺麗な夜景の見られるレストランで不釣り合いな男女の組み合わせを見かけるという話をそこで働いていたことのある人から聞いた。綺麗で若い日本人の女性と、腹が出たりまたは禿げていたりする白人の中年男性とだ。

彼女はその光景についてかすかな嫌悪感をにじませつつ語ったが、それはそのような組み合わせがある種の権力関係や、あるいはなにか純粋さとは遠い卑猥な意図を背後に連想させるからだろうか。

間違いなくそのとき二人の間には美的な魅力という点で大きな格差があるのだが、もちろん見えるものだけが真実ではないはずだ。

その時その中年の男は若く美しい肉体を提供できない代わりに社会的な地位や金銭、また経験に相応の知恵を申し出ることができるのかもしれない。女は女で自分の若さと優れた容姿、セックスを提供することで経済的または有形無形の利益を得ておりそれに満足しているのかもしれない。

つまり一見いかがわしいものに見えても、双方ともにその関係から満足すべき利益を得ている可能性があると考えた。どちらか一方の不満の閾値を超える事態が常態化すればその関係は長くは続かないはずであり、今のところは折り合いが付いているとも見なせる。

とはいえ、例にあげたようなカップルを見かけたときに何か割り切れない思いを抱くとしてもその感覚は正当化できる。無理のないことであり自然な反応だ。人間はそもそも、容姿や年齢の面であまりに非対称的なカップルには何か裏を探してしまうようにできている。