A Note

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今夜中の三時だ、不意に目覚めて、目が冴えてしまったので布団にくるまったままnexus7をいじっていたところ飯野賢治の死去を伝えるニュースを発見した。高血圧性心不全という死因を見つけて太ってたからなあと思った。僕は彼のゲームは一つもやったことなかった。あと上の朝日の記事をtwitterで言及してる人の数が二万五千を超えていてこれはあまり見たことがない数字だと思った。結構人気者だったのかも。死は一つのそして永遠の休息だ。私たちの感情の終焉だ。現世的な煩わしさからの解放とも言える。もちろん死を過度に美化することには慎重になるべきではあるが。ここまで書いて眠くなってきたみたいだ。ということで僕の方はそろそろ束の間の、休息に帰ることにする。

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Wilkinsonの40度のウォッカをボトルから直飲みしながらdommuneを聞き中(この記述によって婦女子のみなさんにワイルドさをアピールする下心なし) ただ面倒くさいからさ。美味しく飲みたいというよりこの場合は物質としてのアルコールの摂取だ。


なんかこのラジオ最近若者に人気らしいけど? 僕は変に老成したところがあって自分を若物だとかんがえたことがないからまあこういうふうにいうんだけど。まだ自分自身が若いのだが「若者」と言うクソ大ざっぱなカテゴリに繰り込まれることは明確に拒否したいという漠然とした意思があるのかもしれない。

「若者の街渋谷」なんてのは密着警察24時で繰り返されるクリシェだ。女子中高生の危険な性、みたいな。

去年、真夏に友だちと渋谷のclubに行った帰りの朝方、ちょうど女子中学生くらいの子が好んで着そうなデニムのミニスカートとパンツとキャミソールが道端に放り出してあるのを発見した。これはどうしたことだね、と思ったがだからといって何をしたわけでもなかった。火遊びが楽しいのはそこで火傷するリスクを犯しているからなのだが、現実に火に触れてしまえば傷跡が残るだろう。浮気や不倫は楽しいが、それが明るみに出たときには憂鬱な事態を招きかねない。あのときあの場面で何か邪悪な意図が働かなかったことを願うが。

google chromeの左端に配置したdommuneのタブからメロディーを持たない無機的なビートが流れてくる。人間が焚き火を囲んで酒やドラッグを摂りながら踊り出した昔々の頃、宗教と音楽と祭礼とは未分化だったはずだ。それはパーティーの最も始原的な形だ。盛り上がりによってはセックスする人たちもいただろう。そうなることは自然の理だ。そのころ公然わいせつ罪なんて馬鹿げた法律はなかった。

純粋なエクスタシーと高揚感を得るための、全てが許された祝祭に憧れてしまう。

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本質的にシリアスな人間ほど「社会的に尊敬される人生」からの息抜きを必要とする。僕が最近は一切知的に意味のあることを書いてないのもたぶんそのせいだろう。常々真面目すぎることが自分の最大の問題だと思ってきた。法や規範へ服従しなければならないという意識が強力なためにそれらを結局は自分を縛る純粋な悪とみなして憎まざるをえないのである。精神の深い所で解放されていないという窮屈さにずっと耐えているのである。

本物の賢者は賢く見えたいというpretentiousな気取りから自由だ。自分自身の愚劣さについて根源的に語れない人間は賢者という語の定義に含まれない。自分を自分以上のものに見せようとする努力が最終的に報われるのかどうか僕にはわからないがその手の試みは対面する話し相手を恥ずかしい気持ちにさせるという点ですでにalready、小さな悪である。僕は率直な物言いを恐れない人間が好きだ。誰に好かれようと嫌われようと構うことはないという態度を持ったクールな人物になることが目標だ。