A Note

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3.アイロニストの三つの顔

 ローティのいうアイロニストの特徴を要約すると、次のようになるだろう。まずアイロニストは、自分が現在使っている語彙を徹底的に疑い、絶えず疑問に思っている。また彼は、この疑念を解消するための語彙を、現在の語彙の中から見つけ出すことができないと考える。なぜなら、他の語彙に、つまり自分が出会った人々や書物から受け取った終極の語彙に、彼は感銘を受けているからである。アイロニストは、自らの語彙が偶有性と脆さに晒されていることを意識するがゆえに、自分自身を真面目に受け止めることができない。「アイロニストは、自分は誤った言語ゲームを演ずるように教えられてきたのではないか、そんなことがありうるのではないか、と憂慮して過ごしている」[Rorty 1989=2000:156]。

他方でローティのアイロニストは、新しい語彙を旧い語彙と競わせつつ、新しい語彙に勢力を与えることによって、最大の快楽と社会的効果を引き出そうとする。アイロニーの対極にあるのは「常識」であり、「業界屋のパラダイム化された語彙」であり、また「政治的・芸術的に真面目なコミットメントを誘う語彙」である。これらの三つの語彙をはぐらかしながら新しい知的快楽をもたらすことこそ、アイロニストの流儀に他ならない。

ローティ流のアイロニストが社会的に何か役割を果たすとすれば、それはおそらく、次の三つの筋道を通じてであろう。すなわち、(1)成長論的自由主義の推奨、(2)強い詩人と文芸批評家の役割に対する評価、(3)討議を避けて合意を得るというリベラル派実力政治の肯定、である。私は(1)と(2)の筋道を評価するが、(3)に対しては批判的である。それぞれについてみていこう。

これを読んで、自分がローティ言うところのアイロニストの定義に寸分違わず合致しているということが分かり、面白かった。書き手の北大准教授、橋本さんに感謝したい。考えてみれば、僕の自覚的に用いている語彙は、言うまでもないことだが、一つは紛れもないアイロニーだ。皮肉だ。そしてもう一つは "「政治的・芸術的に真面目なコミットメントを誘う語彙」" だ。僕は皮肉を使う。しかし一方では、何のひねりもない率直な真面目さも使う。たまにmay justice be doneとも言う。そしてどうも結局のところ、真面目さもjusticeも信じていない。つまり自分で語っている言葉なのにそれを信じていないようなところがある。

基本的な戦略ははぐらかしと冗談であり、何よりも嫌いなのが真面目さと正義感だ。真面目なだけの人は嫌いだ。なぜならそんな人に限って何も考えていないからだ。正義感に溢れた人は嫌いだ。なぜならそんな人に限って内省が欠けているからだ。そしてこのようなことを書けるという事実によって、やはり僕がアイロニストであるということは明らかではないだろうか。しかし正直に言って、自分がアイロニストであることそのものに含羞もあるのだ。例えば、皮肉が上手いのは全然いいことではないと思っている。セリーヌは皮肉を言わなかった。だから僕は彼に劣等感を感じる。アイロニストというのは、アイロニーを用いることなく正面から正義を語ることのできる人々に劣等感を感じ、また羨ましくも思っている人種であると言えそうだ。僕はそう感じる。興味が湧いたので、そのうちローティを読んでみたい。

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with love っていうけど、もちろん love = hateの等式が成立する以上、だからこれはwith hateと書いてもいい。実際書いてるものを見てもlove というよりはむしろ世界に対するhate に近いというふうにも見ることができる、そのときの気分によってどちらかに振れるだけで。そしその二つの価値の湧き出してくる源泉に当たる何か、つまりときにlove ときにhate が生まれてくるところの源泉、大きさを持たずただ力のみを持つ点のような箇所が人の中にあるはずだ、それはなんだろうか。それらが生まれてくるところの根本にあるのは感情以前のものだ。まだ感情ではない。

それはきっと何色でもなく属性を持たない、世界への純粋な執着ということになるだろう。つまり一切の色を持たない、価値を持たないひもで、自分がこの世界へ、どうしようもなく縛りつけられている。世界と自分との間にその結託がある限り、どうでもいいとは思えないということだ。そしてそのひもを完全に切り離すことができたら、世界のことをどうでもいいと思うことになるだろう。そしておそらくlove からも hateからも解放されるだろう。しかしそれは果たして人生なのだろうか? きっとそれはもう、一般的に言えるような人間の人生としての形を取らないだろうし、その人間はもはや幸福も不幸も味わうことがないだろうという予感がある。世界と完全にdetachされた人間は。そして解脱とか悟りとか呼ばれてきた概念にはこの世界との完全な切り離されに関係がないだろうか。

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これモデルとして面白いなあ。つまり人間の心理を逆手にとった、合法的な詐欺のシステムじゃないかという予感がある。最近よく見るようになった0円スタートのオークション。そして商品の出品者はなぜかサイト運営者だ。つまりニンジンをぶら下げて競争させるわけだ。なんということだ。メタファーを使ってみよう。サイト運営者がおもむろに懐から市価200円のあんパンを取り出し、ひもに吊るしてぶら下げる。そして言う。"このあんパンを今からオークションにかけます! スタート価格は、0円です!" あちこちで触れ回る。宣伝する。ちょうどあんパンが食べたいなあと思っていて、お腹が減っていた人たちは当然そのあんパンに興味を惹かれる。上手くすればあんパンがただ同然で食べられるじゃないか、と思って集まってくる。

さて、ここで運営者が告げる。"ただ、皆さん、お分かりのようにこれはオークションなのです。ですからこのあんパンに最も高い価格をつけていただいたお一人に、このあんパンを進呈いたします。あと、皆さまが一度入札するたびに、申し訳ないのですが1円の手数料を頂戴させてください。それでも0円からのスタートです。しかも一度の入札で1円しかかかりません。10回入札しても10円しかかかりません。このチャンスを、どうかお見逃しなく!" そしてオークションの開始を告げる銃声が響く。そのあんパンを食べる権利を求めて集まってきた腹ペコの消費者が、期待に胸をふくらませ、入札の競争を開始する。

しかしどうか、つまり、本当に儲かるのはどちらか? 運営者か、それともあんパンを食べたい入札者たちか。僕には判然としない。経済学や数学の素養がないから、簡単な計算をしてみることしかできない。だからそれをしてみよう。市価200円のあんパンを食べる権利を求めて、すでにある程度長い時間にわたって入札競争が行われた。スタート価格は0円だ。そして現在の時点で、10人が10回ずつ入札しているとする。さて上にも述べたように手数料は1度の入札につき1円だ。つまりこの時点ですでに、運営者の側へ手数料収入として10 x 10=100円が渡っている。

次に現在このあんパンにはいくらの価格が付いているだろうか? 値上がりの幅がお金の最少の単位にとどまったと仮定して、つまり1度につき1円の、可能なかぎり最も小さな刻みで値がつり上がったと仮定しても、100回入札されたあんパンには、最低でも100円の価格が付いているということが分かる。そしてこの時点で、運営者の側に損失は出ないという事実が確定する。200円のあんパンを0円スタートで出品した運営者だったが、すでに100円の手数料収入を得ており、そしてあんパンには最低でも100円の価格が付いている。だからもし仮にこのままオークションが終了したとしても、プラマイゼロで収支が釣り合う。そしてそれを言い換えると、つまり今後もオークションが続行され入札が続く限り、それにより発生する手数料収入、そして100円を超えてさらに釣り上がるあんパンの落札価格、それらはまるごと運営者の利益となる。

面白い仕組みだ。本当に儲けるのは、どっちだ? この世界ではコードへアクセスできる人間が、システムを設計することのできる人間が利益を総取りする。知識のない人間は、その上で遊び、踊らされ、そして自覚のないままに、集金されるだけだ。僕がもし本を読み考え、映画を見て考えるとしたら、それはただこの世界のコードを読めるようになりたいからだ。なぜ自分が搾り取られているのかも分からないままで搾り取られるなどということには絶対に我慢できない。そしてシステムを破壊するためには弱点を知る必要がある。このシステムのここを動かせば、ここが動く。つまり結果としてこうなる。相互作用を予測できるようになることが大事だ。もし倒したい敵がいるなら、まず敵について徹底的に学ぶこと、そしてその仕組みを知ることからだ。そしてきちんと学べば、社会学、あるいは経済学等の社会科学は、有効な武器となってくれるだろう…