A Note

^_^

映画「コロッサル・ユース」公式サイト
http://cinematrix.jp/colossalyouth/pedrocosta.html


ヴァンダの部屋」は語の真の意味で優しさにあふれた映画だった。インタビューで気になることを語っている。


>> まったく信頼するに足らない世界を信じている人間、つまるところ壊れた人間を、私の映画の主題にしたかった。


よく "壊れた人間" というけれども、その形容に人々がどのような意味を込めているのかいまいち分からなかった。上のペドロ・コスタの定義はよく馴染むように思える。この世界が信じるに値しないということにはおそらくほとんどの人は薄々気がついていて、心のそこでは誰もが少なからず投げやりな気持ちで諦めつつ暮らしているが、それでもこの世界を信じている人間がつまり壊れた人間だと言う。"人生捨てたものじゃない" などと言えるようになればいいのだが、この国で毎年人生を捨てていく三万人の人々は残念ながらそう思えていない。人生捨てたものだ、と言うのだ。三万人は少ない数ではない。彼・彼女らの死はそのまま、"こんな世界は生きるに値しない" というメッセージであるはずだが、しかし生きてある私たちが傲慢で、自殺者に対しても、黙殺するか、良くて "死にたいやつは勝手に死ねばいい" と言い放つだけに終わる。そんな冷酷な言葉でさえかろうじて反応は示しているのだからそれは良いほうなのだ。

ところで大阪の西成で平和的なデモが。ムカつくことがあったら声を上げるのが普通だし、声を上げないのは承服することだ。日本人に関しては "自己主張が苦手" な国民性もあって、デモや暴動は苦手だけど。

いつだったかフランスで燃料用の重油が高騰したときに漁師のおじさんたちが、これでは暮らしていけないから政府はなんとかしろと怒って、そのへんの道路を勝手に封鎖したり、タイヤを積んで燃やしたりしていた。その威勢の良さがただ羨ましくてニュース映像を眺めていたのが思い出される。あれは警察にパクられてぶち込まれたりしないのか? 心配になったが、フランスではその程度では"平和的なデモの範疇だ" と言うなら、いつかフランスに移住したい。

僕は冷笑的だという批判は受けるが何もしないということを自らに許さないつもりだ。それにこれも、いかにも若者らしい、斜に構えた身振りで、あと数年も経てば付き合いやすい、丸い男になっているとも限らない!

しかし思うに、この世界のえげつなさと向き合うためには、半身に構えてやりすごす体の使い方とか、斜めから見る視点がどうしても必要だ。まともに食らうと生きていけない。まわりも迷惑する。しかし迷惑は迷惑だけど仕方がないところがどうしてもでてくる。これだけ密集して動物が暮らしている以上は利害がぶつかる。申し訳ないことや穴に入りたい状況の数々も乗り越えていく必要がある。





.