A Note

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「いき」の構造


以下二章 "「いき」の内包的構造" から分かりやすくて面白かったところ。恋愛において "いき" であるとはどのようなことか、様々な文献からしかるべき箇所を引きつつ述べられている箇所。

「いき」は安価なる現実の提立を無視し、実生活に大胆なる括弧を施し、超然として中和の空気を吸いながら、無目的なまた無関心な自律的遊戯をしている。一言にしていえば、媚態のための媚態である。恋の真剣と妄執とは、その現実性とその非可能性によって「いき」の存在にもとる。「いき」は恋の束縛に超越した自由なる浮気心でなければならぬ。「月の漏もるより闇がよい」というのは恋に迷った暗がりの心である。「月がよいとの言草ことぐさ」がすなわち恋人にとっては腹の立つ「粋な心」である。「粋な浮世を恋ゆえに野暮にくらすも心から」というときも、恋の現実的必然性と、「いき」の超越的可能性との対峙が明示されている。「粋と云はれて浮いた同士」が「つひ岡惚の浮気から」いつしか恬淡洒脱の心を失って行った場合には「またいとしさが弥増して、深く鳴子の野暮らしい」ことを託たねばならない。「蓮の浮気は一寸ちょいと惚れ」という時は未だ「いき」の領域にいた。「野暮な事ぢやが比翼紋、離れぬ中」となった時には既に「いき」の境地を遠く去っている。そうして「意気なお方につり合ぬ、野暮なやの字の屋敷者」という皮肉な嘲笑を甘んじて受けなければならぬ。およそ「胸の煙は瓦焼く竈にまさる」のは「粋な小梅の名にも似ぬ」のである。スタンダアルのいわゆる amour-passion の陶酔はまさしく「いき」からの背離である。

つまり恋愛において真剣になり、またそれに束縛されることほどいきから遠い態度はないと書いている。もしも一時も離れたくないという感情を互いに共有し、ときには互いに甘え合ったりもするような二人がいるとして、その人たちはもはや "いき" の見地からすれば言語道断ということになるのだろう。ベタつくものども、野暮の極みというわけだ。ともすれば我々を容易にとらえてしまいがちなその種の合一の欲望に対して容易に敗北を喫する人間が "いき" であることは不可能なのであり、むしろ避けがたい感情の高まりのうちにありながら、恋する二人の人間が互いに自らを溶解させていくような領域に対して十分に抑制的・警戒的であり、可能な限り自覚的に距離を取りつつ、そのような状況を客観的に眺め渡すことのできる人間こそが "いき" である。"amour-passion = 燃えるような恋" をするほどの野暮はなく、むしろそのような人間的な執着から最も遠いところに位置づけられる行為態度が "いき" であり、それは "超然として" "恋の束縛に超越した大いなる浮気心でなければならぬ"。

この言い方についてどう考えるかは個々人の好みの問題と言うしかないと思うが、僕自身は人生をあまり真面目に考えたくないと思う人間だし、この考え方はかなり好みだ。恋愛だけに限らず、何事に深入りすることも自らに慎み、ありとあらゆることのうわべだけをなぞって死ぬまで生きていくことができればそれが最高ではないだろうか。引用した箇所は、ともすれば女には貞節を強いて男の浮気だけは例外的に肯定するような不当な言い方を補強するだけの言説だとも見られかねないが、僕はもちろんfairnessの見地からそのような立論には反対だ。言うまでもないことだが、男が浮気していいなら女もしてもいいに決まっている、と僕は言うだろう。別に男だけが "いき" である資格を持つのではないはずで、九鬼も女性がいきである可能性について肯定している。

"浮気の大好きないきな女" という人物を想定することが今や何の無理もなく可能ではないだろうか。そのように恋愛においてリベラルな女性に関してある種の男たちは、例えば英語圏では伝統的に "bitch" という蔑称で呼んできたし、ここで挙げることはしないが日本語にも当然それに対応する言葉がいくつもある。しかしそれらの言い方が "女に性欲はない" という、男たちが自分の都合のいいように勝手に作り上げた偽の神話に基づいてなされてきた不当な非難だということは明らかだ。旧世代の男たちは女性が性的な能動性を発揮することで自らの男性性の優越が脅かされると感じ、それを恐れてきた。性的に奔放な女性に対する男の側からの非難や蔑視はその恐怖が形を変えたものに他ならない。しかし端的に言って、その種の態度は単に男たちの自尊心が脆弱であることを証明するものでしかない。